教育講演会に出席して

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午後2時から日本共産党和歌山県委員会主催の教育講演会があり、党中央の藤森氏の講演を聞く機会を得た。
ヨーロッパの国々の中には、デンマークのように高校は無試験、大学は資格試験というところが多いのだという。
デンマークでは、返すことの必要のない奨学金が最高8万7700円ほど支給されている。父親の労働時間は、朝6時からお昼2時まで。もしくは4時まで。残業はない。夕方4時には家族の団らんが成立する。ほとんどの夫婦は共働きだが、労働時間の長さに悩まされることはないらしい。塾は存在しない。存在できる基盤がない。高校は無試験なので受験勉強がない。大学も高校の先生の評価で決まる。選抜による一発試験がないということだ。
このような姿は、日本の教育とものすごくかけ離れている。別世界のおとぎ話のようにさえ思える。
競争をさせなければ学力は伸びない。という人もいるだろう。
しかし、競争が必要だという人々は、学力低下の問題をどのように考えているのだろうか。
日本は、高校と大学のほとんどは選抜試験になっている。定数を定め相対的な競争をさせて、ふるい落とす。
前にも書いたが、和歌山県の高校は、学区制を撤廃し、学校を自由に選択できるようにした。その結果、橋本の生徒は西へ、かつらぎ町の生徒は東へ西へというような状況になっている。県の教育委員会がしたことだから、県の評価では、現在の相互乗り入れのような状況が理想的だということだろう。
でもね。高校生は、電車の中で朝から疲れている。
生き生きしていない。
ほとんどの生徒が高校に進学するというのに、選抜の入試にどのような意味があるのだろうか。
この無意味だと思われる選抜方式の入試が中学校受験にまで降りてきている。
13歳の春、中高一貫の受験や私立中学校の受験に失敗した生徒が、失意の中で地元中学校にやってくる。人生は、13歳にして灰色に染め上げられる。
桜の花が咲く頃に季節が色あせて見える13歳の子どもたちがいる。入試に失敗した子どもたちを親はどのように見ているのだろう。
人間と人間の結びつき、交流の大切さを具体的に学ぶべき成長期に、子どもたち同士を競わせて、「競争のなかで相手をねたんだり比較したりするな。そんな心を持つべきではない」なんていわれたりする。なかなかむつかしい。そんな複雑な心情をつちかうことが本当の教育なんだろうか。
日本の場合は一発試験が多い。もし、インフルエンザにかかって朦朧とした中で試験を受けるようなことになったら、実力は発揮できずアウトとなる。
体調管理も入試の重要なポイントになる。
塾に行かなければ試験に合格しないなどという教育体系というのは、制度疲労をおこしている。
人間も動物だから、本来は、当然今──この瞬間を生きるものだ。生育過程の中で体験すべきことや身につけることを、よけいなことだとでもいうかのようにスポイルして、子どもを勉強だけに没頭させて、今を生きさせずに未来のためにだけ生きさせる生き方は、生物(動物)としての生き方に反している。
遊びをたっぷり味わい、親ともたっぷりふれあって、豊かな人間関係を作り上げないまま机の上だけの勉強を強いるのは、人間を損なう行為ではなかろうか。
子どもを追い込んでいることに気がつかないのは、ものすごい不幸ではないだろうか。
歪んだ教育を変えたいと思う気持ちをもち続ける。
日本のなかでは、これが親の愛情の一つなのかも知れない。


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Posted by 東芝 弘明