学力とは何か

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学力とは何か。
尾木直樹さんの本でこの定義をおこなわずに学力低下論争がおこなわれ、基礎基本の徹底という考え方が前に出てきているというような指摘を読んだ。なるほどと膝を叩いた。
ぼくたちの中学校や高校時代、共通1次試験の実施が準備されていた時代の受験勉強は、暗記中心のものだった。高校生になると数学の学習方法もできるだけ多くの問題集を解き、解法のパターンを覚えるというものだった。公式を考え方によって把握し、公式が導き出されるに至った遠く長いプロセスをふまえた上での応用というような学び方は、受験勉強にはそぐわなかった。
しかし、暗記中心の「学力」というのは、学力の1つの小さな側面にしか過ぎない。
人間は、欠くことのできない知識を活用し、自分の頭で思考し、判断したり、現実を分析し、総合し、学んだものの中から豊かにそれを表現し、新しいものを創造する、そういう力を学び身につけていくプロセスが、「学び」であり、この「学び」によって培われるものがほんものの「学力」だろうと思う。
こういう生きる力になる「学力」は、活用力、判断力、分析力、総合力、表現力、創造力を身につけさせようとする「学びあい」からしか生まれない。
他人を競争する相手としてとらえ、テストで評価できる「成績」で学習意欲を引き出そうとする教育では、社会の一員としての人間は生まれてこないし、ほんものの学力も身につかない。
小学校時代の教育から、人間が互いに学びあい、コミュニケーションし合いながら「学力」を獲得していくような教室を実現することが、真剣に問われている。少人数の学級編成は、学びあい、交流し合うなかでほんものの「学力」を獲得してもらう重要な条件(枠組み)をつくる。
しかし、少人数学級は、単なる枠組みでしかない。肝心なのは、教育内容の改善だ。ほんものの「学力」を培うためには、活用力、判断力、分析力、総合力、表現力、創造力を身につけさせる具体的な教育実践が必要になる。
自分の頭で考え、物事を分析したり、判断したりしていくと「新たな発見」に出会う。この発見には、驚きと喜びとさらなる学習意欲の向上を呼び起こす。
人間の認識は、変化量の把握によって培われるという話を、数日前に書いた。学びあいの場を学級の中に培うことができれば、自分が気づかない側面(物事の変化量)を他者が発見するというくり返しが起こる。こういうことを繰り返していくと、あらたな真実の発見者が自分である場合も増えていく。(参考文献 前衛10月号 〔「学力向上」策が欠落させているもの〕佐貫 浩(法政大学教授))
ぼくは、小学校の5年生と6年生の時に、まさにこのような授業を受けることができた。この2年間の教育は、物事を考えるときの基本を培ってくれた。このような教育を受けたので中学校時代、学習というのは、自分の頭で考えて理解することだと考えていた。
中学校時代、授業中は一生懸命先生の話に集中していた。しかし、家庭学習はほとんどおこなっていなかった。学習の習慣やしかたさえ身についていなかった。自分の頭で考えれば、公式や自然科学の法則にたどり着ける。頭の中には、こういう認識があった。
暗記のための学習はほとんどおこなわなかった。暗記の必要な科目は、苦手で私見の点数もそんなに高くなかった。中でも英語などはかなり悪かった。反復練習や暗記への努力がまったく欠けていたといっていい。
無い物ねだりだが、中学校時代と高校時代、成長に合わせて、学習面で小学校で体験したような充実したサプライズがあればよかったのにと思う。
中学と高校の思春期の6年間、ほとんど自分では学習をしなかったし、自宅での学習方法さえ持ち得ていなかった。この多感だった時代の学び方には、残念な思いが残っている。
5年生と6年生の時代に体験したような学び上の驚きと興奮は、大学に入り社会科学を学ぶまで味わうことがなかった。
大学生になる直前から社会科学の方法を学びはじめ、さらに経済学と哲学を学んでいく過程の中で、経済学の理解のためには哲学を、さらに哲学を学ぶ中で自然科学と哲学との深い結びつきをとらえ直すこととなった。自己学習への態度は、大学時代になってはじめて身についたように思う。
学ぶことを通じて目の前に拓かれていく世界は、極めて新鮮だった。学習することによってもたらされる発見に次ぐ発見は、自分の認識を作り替えるような作用を生み出した。
学習面での次の画期は30歳になってからやってきた。議員活動がこの画期だった。
活用力、判断力、分析力、総合力、表現力、創造力は、小学校時代の教育と社会科学の哲学を学ぶ中で培われ、議員になって質問や質疑を組み立てていくなかで鍛えられていったように思う。
活用力、判断力、分析力、総合力、表現力、創造力は、本や資料を読む、現場に足を運ぶなど、変化量を把握する(新しい知識を得て、その知見で物事を把握し直す)なかから紡ぎ出される。それは自分の潜在意識下でおこなわれるので、直感のような形でもたらされることが多い。
最近、さらに学力を磨けたなと感じるのは、文章を書く力を向上させたことによる。考えを巡らせるときには、文章を書いたり、ノートに思いつつまま考えを書いたり、読んでいる本に書き込みをおこなったりする。文章化することで考えがまとまったり、新たな視点を発見できたりする。発見はまさにサプライズ。驚きは、知的好奇心を高める。年齢などはほとんど関係がない。学力は、学ぶ姿勢と探求心があれば、蓄積され飛躍していく。
しかし、振り返ってみるといまさらながら、5年生と6年生の2年間の体験の大きさを感じる。小学校時代のこの学びがなければ、今日のぼくはないようにさえ感じる。
新城という複式の5・6年生の合同の教室。M先生が培ってくれたものは、ものすごく大きかった。
30数年経った今も、授業のシーンをいくつも思い出す。教えられたときの具体的なイメージを覚えているのは、不思議だ。
たとえば、国語の授業。
テストで0点ばかり取った子どもの1行詩をM先生がもってきてプリントを配った。
今日もまた0点がせめてくる
「この詩はおもしろいやろ。書いた子どもの気持ちがものすごく伝わってくる」
空から灰色の雪が降ってくる
「空から降ってくる雪を見て。雪は白くないんや。黒や灰色に見えるやろ」
あるとき、留守番している子どもが書いた詩を題材に授業をしていた。
詩の中にぽつんと1行、「父も母も道路工事に行っている」という文章があった。
「この文章がなかっても詩の意味は伝わる。この1行はいると思うか、それともいらないか」
先生は子どもたちにこう発問した。
子どもたちの手が次々に上がり、ぼくも2度3度手を挙げた。
いろんな意見が出た。
何度もあてられたぼくは、なかなかあててもらえなかった。
子どもたちは、次々にいろいろな発言をした。
たくさん上がっていた手が少なくなり、やがてぼくだけになった。
先生はもう一度ぼくをあてた。
「この1行がなければ、この詩は書けなかったと思います」
先生は、大きな目をさらに大きくしたまま、絶句した。
こんな風にたくさんの授業が胸の中に残っている。これらの記憶は、ぼくの大事な思い出になっている。


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Posted by 東芝 弘明