いじめは全国にある、と思う。
大津市の中学校2年生のいじめ問題は、自殺との因果関係は認められなかったと教育委員会は発表していた。
しかし、次々にいじめの深刻な実態が報道されている。大津市長は、6日の定例記者会見で再調査を言明している。
深刻ないじめがあっても、深刻に事態をとらえないような傾向は、ほかの教育委員会でも起こるような気がする。
最近、多くの学校では、いじめ問題は、いじめることいじめられた子どもの問題として対応している。
金八先生のように、クラス全体の問題として取り扱われることは少ない。
教室や廊下、体育館、校庭、特別教室など学校のさまざまな場所で起こったり、学校外の通学路で起こったりしているいじめに対し、問題を大きくしないで、小さく、小さく解決しようとする傾向を感じている。
隠したいという傾向があるのかも知れない。少人数の生徒間の問題だから、クラス全体の問題ではないなどのとらえ方があるかも知れない。
教室全体、学年全体、学校全体の問題としていじめと向きあわないと、深刻ないじめ問題には立ち向かえない。
いじめが生まれてくる土壌とは何か。
なぜ学校という生活の場でいじめが発生するのか。
私たちは、自分たちの子どもが通っている学校の問題としていじめ問題を考える必要がある。
いじめはある。先生の目に触れないところで。もしくは先生が見ているところで。
いじめには、3つの土壌があると思われる。
一つは、競争と選別の教育という問題だろう。
競争すべてを否定するつもりはない。スポーツにおける競い合いはいい。ルールの下で競うからだ。
しかし、学校の勉強に競争を持ち込んで組織する意味はどこにあるだろう。
受験競争があるから。
それが現実だと思う。
和歌山県の場合、高校入試に受験競争を徹底的に持ち込んでいるのは、和歌山県教育委員会に他ならない。
学区制の撤廃を行い、全県1つの校区を作り、少子化に合わせて定数をどんどん小さくし、必要なら学校を廃校にし、必ずすべての受験生が合格できない仕組みを作る。こういう設定が、中学校に受験圧力を作り出す。
その結果、競争と選別が生まれる。
競争と選別は、子どもたちの中に徹底的に持ち込まれている文化に他ならない。
日本の教育の背骨になっているといってもいい。
子どもたちは、多くのストレスを抱えている。受験圧力は、ストレスの中でも一番大きいかも知れない。
友だちと力を合わせること、学びあうこと、学びを通じて知る喜びを積み重ねていくこと。学習への意欲を知的好奇心にすえること。
こういう教育は、存在しているが、多くの場合は見失われている。もしくは否定されている。
学べば学ぶほどに、人間同士が力を合わせ、一緒に真実を探求するとはならない。
中学校でも、子どもたちが力を合わせることのすばらしさを実感できるような取り組みが行われている。しかし、それは運動会、文化祭、遠足、修学旅行、クラブ活動など、なぜか学校の教科学習と切り離されている。なぜ教科を学ぶ中で、友情のすばらしさや力を合わせることのすばらしさを教えられないのだろう。特別活動では当たり前のように実現していることが、授業の中ではなぜ貫かれないのだろう。
2つ目は、文化の問題だろう。
「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞさんの詩が、共感を持って受け入れられた。でも、多くの中学校の文化の中には、「みんなちがって、みんないい」という傾向はほとんどない。靴は白、靴下は白、制服の下に着る物は派手でないように。髪の長さは、スカートの丈はというふうにものすごく決められている。こういうものは、同質を求める文化を生み出してしまう。
「みんなおなじで、みんないい」という文化が中学生の中には強く存在する。この文化は、異質なものを排除する。みんな同じでなければならないという傾向は、強迫観念のように子どもたちを支配している。
異質な物を嫌う文化は、集団の中に埋没する文化でもある。
社会的なルールだといって、画一的なルールを外部から押しつけていくと、異質なものをかぎ分ける嗅覚のようなものが身につく。
本当は意味のないことがらを、形から入って押しつける。これは軍隊の組織の仕方に似ている。
最近、教職員を支配している、文部科学省──都道府県教育委員会──市町村教育委員会──学校という指示系統は、形から入って教員を従わせるという物が非常に多い。教員がこのような支配のもとに置かれている学校に自由は少ないだろう。
同質性を求める文化は、極めて強制的な教職員の統制というところに根本的な根っこがある。
3つ目は、日本社会を支配するための、徹底的に対立を煽る国民への分断攻撃だろう。公務員と国民、自営業者とサラリーマン、老人と子ども、男女格差、都市と農村、貧困と格差など、分断のために組織されている問題はものすごく多い。新自由主義的な経済政策は、格差と貧困を極端に広げていくので、国民を分断する作戦を成功させないと、国民の批判をかわせない。失敗したらとにかく集中攻撃を浴びせるという風潮は、メディアがその先頭に立っている。このような社会環境の下で子どもたちは生きている。こういう支配のために振りまかれている対立を煽る影響は、ものすごく子どもを蝕んでいる。
徹底的な競争の教育と、徹底的な同質の文化の押しつけ。徹底的な分断攻撃。
これらが、日本の教育におけるいじめの土壌なのではなかろうか。
最近ニュースを報道されている問題ですね。だけど東芝さんの論理ですがさすがに無理があり過ぎます。いじめは昔から存在するし、大人の世界にもある。だけど今回の大津のは過ぎたるいじめであって犯罪的要素があるだけ。当然その犯罪を犯した3人の中学生は厳正なる法律で処罰しなければいけない。それが未成年であろうとも法律の範囲内で処罰するのが正論です。いじめと恐喝は別です。
それと子供の教育の最大の責任者は誰でしょうか?社会?教師?教育委員会???違いますよ。最大の責任者は保護者にあります。大津の犯罪を犯したと思われる中学生の最大の責任は、その保護者にあります。
東芝さんのように受験戦争とか文化・社会の問題といじめを結びつけたりすると・・・・さすがに違和感がありすぎてねぇ・・・笑。
最後に和歌山の高校入試の件だけど、これは時代の流れなので仕方ありません。善悪というより時代の流れです。昔のような学区制をするのは時代遅れなので仕方ない。有田なんか完璧に和歌山市を中心にとする学区に組み込まれてしまいました。我が母校・耐久は、僕の時代には県下3番目の進学校だったんだけど・・・・・・今じゃ見る影もないほど進学率が落ちています。成績のいい子はほとんどが和歌山市内に進学します。
笠田高校も同じ得ような状況ですね。橋本高校との格差はさらに広がりました。ぼくたちの同級生のほとんどは、笠田高校に進学しました。遠距離通学でばらばらになり、人間関係も希薄になったように思います。
同質の文化を求める傾向が、いちばん問題なのかも知れません。学校という文化の中に囲い込まれ、子どもの世界の人間関係は、非常に単純になっています。いじめられたら、その人間関係がすべてだと思う傾向があると専門家が指摘していました。
いじめる側が、集団の中でモンスターになるのも、根っこが同じだとも言っていました。
テレビに出ていたある先生は、教師がまず気付かなければいけないといっていました。親の方が気付きにくい、ずっとあとになるとも。
ある教師は、手記でいじめに対応するのは教師の仕事ではないと言っていました。教師の側の問題にも根深いものがありそうです。
死んだ蜂を食べさせる。
加害者は、遊びだと言っている。
もし、加害者が高校へ進学して、同じことをされても遊びか?
今回は、通帳のお金を取られたらしいから、いじめではなく、もう窃盗罪の犯罪。
越市長の責任は重い。
しかし、越市長の就任は今年。
事件は、昨年。
当時の引退した目片市長は、無関心だったらしい。
ちくった生徒が、いじめの標的にされないように、先生が見ていたということにできないのか?
テレビでも指摘されていましたが、いじめ問題は、いじめる側に問題があります。いじめられた側に問題を求めるのは、間違っています。
同時に、まわりでいじめを容認して見ていた者、傍観者、いじめられるのが恐くて黙っていた者、いじめを知らなかった者、クラスのすべての生徒に関わる問題です。
いじめられた人間といじめた人間だけの問題ではありません。
狭い当事者間で解決しようとする姿勢は、いじめ問題を学校教育の中で起こってきた特殊な問題、もしくはよけいな問題、例外的な問題という扱いのように感じます。
クラス全体の問題にして、全体で取り組まないと解決できない問題だと思います。いじめに関わっていない者の発言が問題を解決する力になることも、数多くあると思います。テレビに出席したある教育家は、いじめ問題に当事者でない人はいないと言っていましたが、本当にそうだと思います。