蝉と人間

雑感

毎日、さまざまなことを感じながら生きているのだけれど、あわただしく違ったことをしていると、思いが少し錯綜してきて、尾を引くようなことがある。日々の変化に流されて思いが置き去りになるような感じだ。
もっとじっくりと深い印象の中に身を置きたいような時があるのに。

今日は、朝から笠田育成協議会主催の子ども夏まつりだった。子どもたちが企画した夏まつりを親と青年リーダークラブがサポートして成功させるという企画だった。午前中は、笠田小学校の駐車場に設営を行い、子どもたちは、お母さん方と一緒にお店の準備を行った。
本番は、午後3時から5時までの2時間だ。
ぼくは、オープニングの時に車の誘導係だったので会場の外にいて、入ってくる車を案内していた。
目の前の柿の木に蝉が止まっていた。蝉の鳴き声は耳に突き刺さるようだった。姿が見えたのでゆっくり近づいた。スマートフォンのカメラを取り出して焦点を合わせようとすると飛んで行ってしまった。それでも蝉の鳴き声は強い。目をこらしてみても鳴き声の主を探すことはできなかった。
道ばたに立っていると静かになった。蝉の鳴き声がぱったり止まった。空は青く、町は強い光のコントラストの中で静かになった。町は死んだように動かない。すると雨が降ってきた。だが3分程度で止んでしまった。地面が見る見るうちに乾いていく。
蝉はまだ鳴かなかった。会場である笠田小学校の中から開会式が始まった。人の声がよく響いてくる。
暑い夏の最後のイベントだった。

12時半に小学校を出て、自宅で着替えてYさんの告別式に参列した。年配の女性の方だった。
毎日、町中には看板が立っている。毎日のように掲げられる看板に心が動く。知っている人も数多く亡くなっている。
昨日も告別式に参列した。この方は元紀陽銀行の方だった。
何度も、長い話をしたことがある。鋭いところがあり太く物事を考える人だった。緻密なところと大胆なところがあった。棺にも花を入れさせてもらった。奥さんに頭を下げたときに目頭が熱くなった。

人間の寿命について、次第に思いは深くなる。
昨日の同級生の飲み会の帰り道、年をとっていくとだんだん同級生が亡くなるだろうという話になった。
「今まで生きた時間だけ、もう生きられないよな」
「それは絶対無理や」
そう、自分たちの年齢を2倍すると106歳になる。人間として長く生きても悟りが開けるというものではない。みんな哲学的な人生を生きている訳でもないし。ただ、山道を登っていくということとは重なる気がする。高台に登ると自分の歩いてきた道が見える。物事を俯瞰的に見渡すことができる。今まで見えなかったものが見えるのは、高台に登るからだろう。
人生という山は、肉体的には上り坂と下り坂があるだろうけれど、歩いて行く道という点では上り坂しかない。
高みに登って俯瞰的に物事を見続けて見える景色があるということが、人生の楽しみなのかも知れない。
同級生との時間を大事に感じるのは、同じ時間を生きてきた人間としての絆の深さにあるのかも知れない。

蝉は、7年土の中にいてさなぎの姿を脱皮して、最後の7日間を鳴いて過ごす。人間の生き方との違いを感じる。潔さのようなものを感じてしまう。鳴いているのはオスでメスを誘っているのだという。成虫になってからの華やかさと潔さと充実感はなんだろう。
人間は、こんな風に晩年を華やかには生きられないのかも知れない。

うん?
まてよ。だれがこんなに正確に蝉の生態を調べたのだろうか。
ウキペディアでググってみると、蝉の生態はよく分からないのだという話が書かれてあった。飼育が困難なので捕獲すると蝉はすぐ死んでしまうようだ。蝉は1か月間程度成虫として生きるとも書かれていた。アブラゼミは地中で6年生きるとも書かれていたが、長いものは13年も地中で生きるので、昆虫の中では長命の部類に入るとも書かれていた。
蝉の生態は、まだかなり未知の部分が多いらしい。7日で死ぬというのは、どうも俗説らしい。

人間の生き方も個体差がものすごく大きい。蝉の生態が複雑であるように、人間の生態ははるかに複雑だろう。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明