偶有性と「文化の罠」
「学問のススメ」で茂木健一郎さんの話を聞いた。
日本の教育には偶有性に欠けているという話だった。
ケンブリッジ大学の入試は、面接だけで偏差値という考え方はないのだという。アメリカも偏差値はないようだ。
長時間の面接で、「なぜ植物は歩かないのか」という受験準備のできない質問が出されて、それに答えなければならないのだという。答えのない問題に対して、論理的に実証的に話を組み立てて論じることのできる思考方法が問われているのだという。
日本の教育は、「オワコン」(終わったコンテンツ)だと言われても仕方がない、と茂木さんはブログに書いている。徹底的に回答することが求められ、全て試験は点数化され、この点数によって徹底的に仕分けされる。
最初から答えのある問題ばかりを寄せ集めて、結局はその用意された答えをいかに正確に記述するか、だけが問われ続ける。いかに早く、いかに正確に解けるか、ということを追求していくと、徹底的に問題のパターンを暗記して、瞬時にそのパターンを判別して、問題を解くという技術が求められるようになる。そのことによって、失われる可能性があるのは、自由で柔軟な思考方法だ。これが失われると、回復するためのリハビリが必要になる。リハビリがないまま、社会に出て挫折する人もいる。
日本の優秀さは、「解ける問題を素早く解く能力」、「それによって得られた偏差値」、「その結果実現した名門大学への入学」によって計られる。しかも、この物差しは死ぬまでついて回る。
茂木さんは、こういう状況を「文化の罠」に陥っていると表現している。
「東京大学出身です」
イギリスやアメリカでは、こういう話にほとんど意味はないのだという。その人が本当に豊かで柔軟な思考を持っているのかどうかが大事なので、その人間に豊かなものがないと、重視されないのだという。
社会に溢れている問題は、なかなか答えが見つからない問題の方が多い。あらかじめ答えのある問題に答えるようなことで、社会の荒波を生きていくことはできない。複雑な物事を分析し、分析の次にはそれをもう一度総合し、細部への理解と全体への理解を統一的にもち、問題の本質を構造的にとらえ、複雑な問題を解くために努力して、事態を切り拓いていける柔軟な発想や思考こそ、今の時代には求められている。これをどのようにして身につけるのか。
アメリカでもヨーロッパでも、そういう能力を身につけるための教育がなされている。この点では、日本は全く太刀打ちできない。
日本の「文化の罠」は、もしかしたらガラパゴス状態なのかもしれない。この「文化の罠」は、日本の知性が豊かに発展することを阻害している最大の問題なのかも知れない。
茂木さんは、この問題の結論として「自衛」以外に方法はないということをブログで書いている。現時点ではそう言うことなのかも知れない。
こういう話を聞いた前後に、今日は驚く話を聞かされた。
「親が、受験情報を敏感にとらえ、集め、子どものためにそれを生かし、進路を決められるようにするべきやで」
「田舎って受験の情報が少ないでしょう。橋本高校もレベルが低くなってるんやで」
「橋校のまわりにある塾もね、ぜんぜんよ。塾に行くんだったら大阪の堺まで行かないと。全然教えている中身が違うんやで」
和歌山市内にあるミッション系の女子校がいいという話もたくさん出された。
「躾が厳しくって、きちんとしてくれるし、受験にものすごく熱心だし。勉強について聞けなかったら徹底的に補修してくれるし」
「和歌山大学ってレベル低いんやで」
「同志社も同じ。京都の人はあんまり同志社には行かないみたい」
「大阪府大も、大阪市大もね」
「学校のレベルが全然違うのよ。英語の単語の習う量も何千も違うんだから」
ぼくは、目を丸くしてこの話を聞いた。受験に競り勝つための親の情報と、子どもへの努力のすさまじさにたじろぎさえ覚えた。
「地元に住んでもらえなくなるんと違うんですか」
「かつらぎに何があるっていうの?何もないやん。関西で住んでくれたらいいかなって。その子が行きたいところにいけるようにしてあげることが大事かなって思う」
こういう答えが返ってきた。
一生懸命話してくれる方の目つきは鋭かった。「前は柔和な感じだったのになあ」という気持ちを飲み込んだ。
自分と対話してみる。このような話に心が動かないかと言われると、そうかなあと思いつつ、ある程度は「そういうことをしなければならないのかなあ」、と思ったりする。
全ての親は、子どもの受験と無関係ではいられない。こういう話を聞かされると、なんだか背中に冷や汗が流れるような気持ちになる。
「自分の頭で、自由に、事実を大切にして、物事を深く豊かに考えられる人間として育ってほしい」という気持ちが一番の根底にある。そういう思考を身につけるためには、たくさんの本を読み、文章を書き、政治や社会や自然科学などさまざまな分野の問題を考察できるようにならなければならない。
ぼくが、議員になって身につけて来たような思考方法や発想は、物事を考えていく上で大事なものだと思っているので、自分が身につけて来たものを娘にも伝えられたらと思っている。
そのためには、ぼく自身が、たえず学び、認識を発展させ、生き生きと物事に取り組むという姿勢を持ち続けることが大事だと思っている。娘が、ぼくに何かを尋ねたら、いっしょに物事を深く考えられるような会話をしたいと思っている。
茂木さんの話は、学力とは何か、人間の脳はどのようにして、鍛えなければならないかを語るものだった。受験の話と茂木さんの話は対極にあったものだが、やっぱり心惹かれるのは茂木さんの方の話だ。
でも、茂木さんのような柔軟な思考方法を身につけることが、受験に生きる力にもなるのだろうか。背中に流れた冷や汗は、ぼくのこの自信と確信のなさを象徴しているのかも知れない。
僕の子供も受験に関係する年頃なので、私見を書き込みます。伊都地域では、偏差値として橋本高校がトップになっています。また橋本高校は進学状況をHPで公開しており、国立大学の進学率が約25%です。もちろん現役生です。ぼくらの感覚からすると25%の国立大学進学率は高いと思うんだけど・・・実は、30年ぐらい前に比べ国立大学の入学試験はやさしくなっています。子供の人口が減って、逆に国立大学の定員が増えいる状況の場合、当然やさしくなります。ただ・・・数値的(偏差値)としては昔と同じで、例えば和歌山大学の偏差値は昔と同じぐらいです。
つまり・・・大学に入る学力レベルというか、入試学力の低い学生が昔に比べ大学に進学しているということです。
偏差値というのは統計学の数値で、全体のばらつきに対する位置を示す数値に過ぎません。だから昔に比べ受験生のレベル全体が低くなっているために、大学としての偏差値は同じという訳です。
東芝さんの言うように偏差値入試の問題はありますが・・・・小学校レベルの分数計算ができない大学生が30%もいるという現実もなぁ~・・・そりゃ分数を理解できなくても生活できるけど、学問の最高学府に進学して分数も理解できないかと思います。
それと、和歌山市内にあるミッション系の女子校の話題が出ているので、一言。
和歌山に限らず私立学校は生き残りに必死です。昔のような子供が多い時代には、学生が必ず入学してくれたのですが・・・・現在の場合、偏差値の低い学校は経営が成り立たなくなります。昔は公立高校からあふれた生徒を吸収ような楽な学校経営で運営できたのですが、現在ではダメになります。それで和歌山市内の私立は偏差値を上げるように努力し、進学にも力を入れているのです。昔と違いますよ~・・・そのミッション系の女子校なんかも、昔のレベルに比べ段違いですよ。橋本高校より少しレベルが低いと思うけど、まあ近いレベルまで上がっています。
最後に・・・橋本高校の進学率ですが、実はもうひとつ。橋本高校のHPに公開されていることですが、一般の中学から橋本高校に進学した生徒(3クラス120名)の国立大学進学率は18%程度です。対して古佐田丘中学出身者(2クラス80名)の進学率は30%となっています。野球の練習やピアノの練習と同じように、受験の練習も早くから練習した生徒のほうが、結果として上手くなる。・・・そういう結果です。
トリノさんのこの書き込みは、説得力のある記事だと思います。この前教えてもらった話よりもなるほどと思います。
こういう現実への対応をしなければ、目的を達成できないので、受験に対応するためには、このような情報も必要だと思います。大変参考になりました。
日本の教育のあり方は、受験というモンスターのような存在の中で歪んでいるのは確かでしょう。アメリカにしてもヨーロッパにしても日本のような価値観とは違う教育が、存在しています(アメリカは、最近教育にも競争をということで歪み始めています。その歪みは、堤未果さんの本に書かれています。堤未果さんの指摘が正しいのも、他の人の記事によって確認できます)。
最近テレビでクイズ番組が盛んです。各大学の入試問題がクイズの出題に数多く出されたりしますが、大学入試の試験は、クイズ番組のように明確な回答のある問題だということです。難しい問題を瞬時に答えることのできる能力は、頭の良さの一つの側面ですが、それだけで計るような学力というのは、本当は学力のごく一部を示しているに過ぎないと思います。
肯定的な理解力、批判力、分析力、総合力、帰納、演繹、現象から本質を見抜く力、表現力、構成力、想像力(イメージ化する力)、創造力、コミュニケーション力、文章力、思考力、論理力など、こういうものを総合的に培っていく教育への転換が求められています。
数値化できない学力があるということを大胆に認める必要があります。そのためには、学力の再定義が必要です。どのような力を身につけさせるべきなのかを明らかにして、教育のあり方を見直す必要があるということです。
日本の教育の歪みに気がついている人は、たくさんいると思います。しかし、それを現実の教育に反映させて、入試のあり方を根本的にあらためるためには、かなりの時間がかかるでしょうね。