書けない本音、書きたい本音

雑感

「議員はブログを書こう」
こう言うと
「なんでそこまでして自分を世間にさらけ出さなければならないのか。そんなことをしろというのであれば、死んだ方がまし」
そういう意見が出て来た。
この意見を言った人は、ブログを書く=自分をさらけ出す、というように捉えていた。
ブログを書くことは、自分を世間に向かってさらけ出すことなのだろうか。
確かにさらけ出している部分があるのだけれど、何もかもさらけ出している訳ではない。
ブログという公開された「日記」は、そもそも、自分に向かって書くだけの日記とは随分違う。自分の忘備録や自分に向かってだけ書かれる日記というものは、公開を前提にしていないので、腹が立つことがあれば、自由自在に、それこそわら人形に釘を打ち付けるようにして、他人への悪口を書いてもかまわない。公開される「日記」であるブログは、議員の場合特に自分の本名を世間に公表しながら、公開を前提として書かれているので、どうしてもどこまでオープンにできるのか、ということを考えながら書くということになる。
そうやって書かれるブログ「日記」なのだけれど、書き続けるためには、「本音」を書くことが必要だと思っている。外面よく体裁を取り繕って、きれいに書いていくと、自分の内面に存在している本音と文章とが乖離してきて、書いている世界がウソだと感じるようになるに違いない。そうなってくると書くことがすごく嫌になってくる。
公開を前提としているブログ「日記」で書いていることには、書くことのできない部分があるのだけれど、自分の本音をさらけ出すものであることには違いない。何を書くべきではないのかをわきまえつつ、書きたいことを書く、書くべき本音、世間に伝えたいと思う「真実」を書く、自分の判断で書きたいことを書く、というのがブログを書き続ける根源的な力になる。
ブログに書いていることは、自分自身の本音。しかし、公開されたブログには書けないこともある。公開される文章というものは、たえずこの主観的な判断、つまりバランスの上にある。世の中の全ての作家は、程度の違いはあれこのバランスの世界に生きている。
フィクションという形で小説を書いている人の中には、虚構があるにもかかわらず、すごく赤裸々にまわりの人々を描いていることもあるに違いない。フィクションがノンフィクション以上に真実を描いている。フィクションであるがゆえにノンフィクションを超えることさえ起こる。これも本音の描き方の一つの姿なのではないだろうか。

もう一つ面白いのは、自分にだけ向かって書かれる日記だろう。自分に向かって書いている非公開の日記に、他人に対する悪罵を投げつけるような文章を延々と書くことができるかどうか。
これはかなり難しいと思われる。自分に向かって書く日記は、自分の意識を紙やディスプレイの中に顕在化して書き出すということなのだけれど、社会的産物である言語を活用して、考えていることを顕在化すると、書いた文章が自分に向かってくる。自分の書いた文章が自分に白羽の矢を向けるので、他人に対する悪罵を、わら人形に釘を刺すように書き続けることはなかなかできない。そんな文章を積みかさねて行くと、自分の心が書いた言葉によって絶えきれなくなって歪んでくる。
人間の本音は、良い心と悪い心の葛藤というような形で描かれたりするが、本音にも複雑な相反する傾向がある。それを自分にだけ向かって書く日記のなかに表現していくと自省的なものなる人が多いのではないだろうか。そうなるのは、社会的産物である言葉の力なのかも知れない。もし、平気で殺人計画のようなものを文章化して積み重ね、計画を精緻化させることのできる人がいるとすれば、それはバランスが失われている異常な状態なのではないだろうか。

書けない本音と書きたい本音、書くべき本音、社会に伝えたい本音。このバランスの中に議員のブログもある。


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雑感

Posted by 東芝 弘明