自由な時間と豊かさ

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昨日、笠田育成協議会が集めた小学校5年生と6年生のドッジボール大会のご苦労さんを兼ねたお食事会があった。小学生の5年生と6年生の2チームは県大会で6年生が3位、5年生が4位という成績をおさめ、入賞した。
お食事会は、会費を集めて中華料理屋さんの2階でおこなわれた。男の子は、大人以上の食欲だった。とにかく食べながら、運動をするというような状態で、エネルギーが有り余っているのが感じられた。
色々な傾向が指摘されている子どもたちだが、昔と同じように無邪気に遊んでエネルギーを発散している姿を見ると、変わらない子どもの姿を感じる。
子どもや親の何が変わったのだろうか。
変わった背景には、生活の環境変化があると思う。その内容に少しだけ迫るために、豊かさとは何かを考えてみたい。
ある方が、日本は豊かだと言い、豊かさの中で生きる実感が失われ、豊かさの中で年間3万人以上の自殺者が生まれているという指摘をおこなっていた。この話を聞きながら、豊かさとは何かを少し考えてみた。
資本主義の発展は、生産力の発展によって支えられてきた。資本主義における生産の仕組みは、それまでの人類の歴史をはるかに凌駕する勢いをもって、生産力を発展させてきた。
その結果、社会は急激に変化し、私たちの生活のまわりには、ハイテクノロジーな商品があふれかえるようになった。
ぼくは、中学校に進級するときに自転車を買ってもらった。中学生用の自転車は、当時ウインカー付きの自転車だったが、このタイプは5万円程度したので、ウインカーのないタイプしかかってもらえなかった。カタログを穴が開くほど見つめ、1万何千円かの差を恨めしく感じていた。

ウインカー付きの自転車というのは、こういうスタイルをしていた。
現在の自転車はどうだろう。

ネット検索してみると、このタイプの自転車で23800円という価格がついていた。ぼくが買ってもらった3万数千円の自転車よりも安くなっている。
時代が進展するにつれて、工業製品の価格がなぜ安くなっていくのか。というのは、マルクス経済学では、経済原論に属する問題。社会的生産に必要な労働時間が商品の価値を形成するので、生産力が発展すれば、工業製品は、時代の進展とともにその価格をどんどん下げていく。
こういう事例は、枚挙にいとまがない。
高校に入学したとき、入学と合格のお祝いにセイコーの自動巻の時計をプレゼントしてもらった。1975年当時、この時計は2万円台だったような気がする。
どういう形の時計だったのかは、画像があった。

ぼくが今、腕に巻いている時計はカシオの電波時計。秒まで全く狂うことがないし、電池はソーラーなので交換不要となっている。これで1万数千円だった。
商品の価格が安くなったことで、一般庶民の身の回りにも商品があふれることになり、人々は、工業商品の恩恵を得て、生活するようになった。
貧しかった時代を身をもって体験してきた人々は、食うや食わずの生活との比較で、日本は豊かになったという。しかし、ほんとうにこのような尺度だけで豊かさを語っていいのかどうか。
これがぼくの問題意識だ。
資本主義が発展すれば、必然的に豊かにものが溢れるようになる。その結果、人々の暮らしが豊かになったのかどうか。いったい豊かさとは何かということを考える必要があるのではないだろうか。
商品の価格が、全般的に低下していけば、人々は、生活水準があまり変化しなくても豊かなものを手に入れることができるようになる。
車、電話、テレビ、冷蔵庫、掃除機、これらのものは、一昔前は一家に1台だった。しかし、一家に1台買いそろえた時代の価格よりも安く、複数台のものを買いそろえることができるようになった。だから、多くの家庭には、電気製品が複数台存在している。
ものが溢れていること=豊かさだとすれば、昔よりも日本は絶対的に豊かになっている。
では、なぜ、日本の国民は、さまざまな問題を抱えているのだろうか。豊かになった中での苦しみは、贅沢に起因して起こっているのだろうか。
短い論考の中で、指摘しておきたいのは、1日24時間の中で、どれだけ人々は自由な時間を手に入れているのだろうか。という点だ。
8時間労働制は、8時間の睡眠、8時間の(家庭生活+自由な時間)、8時間の労働という考え方によって成り立っている。
しかし、日本の働く人々は、12時間、14時間というような労働時間の中で生きている。父親の姿が、かつらぎ町という田舎でも、地域から消え、場合によっては子どもたちの目の前からも消えている。
女性も働き始めている人が必然的に増大し、それに伴って男性側の賃金が減少している。
夫婦片働きの家庭の経済生活は厳しい。
その結果、家庭が安定的に存立する根本的な条件が蝕まれている。
離婚率の多さや家庭の破たん現象の多さは、人間の自由な時間が奪われていることに影響されていないだろうか。
資本主義が、商品の価格を引き下げ、国民の身の回りに商品をあふれさせるのが必然的な方向だとして、それだけで豊かさを論じるのは、大きな何かを見失っているように思えてならない。商品の価格を引き下げるために、サービス残業が横行し、賃金の未払い問題が蔓延している。その結果、自由な時間が奪われているとすれば、日本は、低価格な商品を資本が製造し、競争に打ち勝つために、人間の自由な時間を奪っているといえるのではないだろうか。
はたして、こういう姿が、豊かさを享受してる状態だといえるのだろうか。
人間の発展にとって、自由な時間の拡大がどうしても必要だというのは、マルクスの考え方だった。仕事を通じて、人間はさまざまな能力を開花させてきたが、同時に自由な人間の時間が、人間の豊かさの幅を広げてきたのではないだろうか。自由な時間が奪われている現代の日本は、本当の豊かさを破壊する作用を社会のうちに内包しているのではないだろうか。
子どもたちの何が変わったのか、という問いかけへの答えも、自由な時間が子どもから奪われていることとの関係で掘り下げていくことが必要なのではないだろうか。
子どもの成長の一つの側面は、子どもたちが自由に遊び、自由に人間関係を結んで生きるところによって培われてきた側面が大きい。この自由な時間を子どもから奪い去るようなさまざまな仕組みが、子どもの本来もっている活力を奪い去る元凶ではないだろうか。
お腹いっぱい食べて、友だちとはしゃぎ回っている姿に、子どもらしい姿を発見し楽しくなったのは、昨日の収穫だった。こういう姿にこそ、未来への希望と教育への希望がある。
そう考えるのは、大げさなことではないと思う。


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Posted by 東芝 弘明