請願の紹介議員は、どうして反対にまわったのか

雑感,かつらぎ町議会

請願の紹介議員になった議員が、いろいろな人の働きかけを受けて、請願には賛成したが、請願にもとづく意見書には反対するということをしてしまう。こういうときに、当の本人は何を考えるのだろうか。
板挟みになって、世間が驚くようなことをしてしまった人はものすごくたくさんいる。

今回の場合は、命に関わるようなことではない。どんな風に働きかけられて、心が動いたのかは分からないが、請願の紹介議員を引き受けたことについては、考えなかったのだろうか。こういう人たちのことを裏切ってしまうことについては、どう考えていたのだろうか。

日本国憲法9条は、国家権力の手を縛る檻の中でも、最も強力な檻として役割を果たしてきた。憲法の他の条文をめぐって、国と国民の中で綱引きをしてきた例の一つは、憲法第25条だろう。「最低限度の文化的な生活を営む権利」という規定をめぐって生まれたのが生活保護で、生活保護の費用をめぐって「最低限度の文化的な生活」とは何かが議論され、時代とともに変化してきた。
この25条とともに、かなり激しい綱引きがおこなわれてきたのが憲法9条だろう。9条はまさに戦争か平和かの試金石のような役割を果たしてきた。この条文が維持されるかどうかは、国の形が大きく変わるかどうかという問題の中心点だった。

国による交戦権と国が軍隊を持つこととは、極めて大きな国の権限だろう。国が一旦戦争を始めれば、軍隊に入っている軍人の命を戦力の一部として活用することになる。戦争という極限状態の中で、軍人の命を奪われても国は責任を負わなくてもいい。命の危険に晒されるような作戦を遂行しても、軍事上必要であれば許されるのが戦争だし、かりに相手国の一般人を巻き込むような誤爆などがおこなわれても、責任を取ることはしない。
戦争遂行の権限は、人間の命をも拘束する力を持って、国民をコントロールする。国家権力も最も強大な力は戦争のときに発揮される。
自由の国アメリカは、戦争を遂行するために、事実上2大政党以外の政党を閉め出し、国民の選挙権を登録制にして、制限をかけ、国民から選ばれる大統領も、直接国民が選べないような仕組みを持っている。幾十にも国民の選挙権に制限をかけて、2大政党制を維持し、国民の意思が直接国家に届かないようにしている。
アメリカのこういう社会制度と戦争遂行の仕組みは、非常に深くリンクしている。

請願の紹介議員でありながら、請願が求めていた意見書に反対した議員は、かなり葛藤をしていたと思うのだけれど、彼をして請願人を裏切る行為に立たせた判断基準というのは、何だったのだろうか。

多くの人々が、葛藤の末に賛成を反対に変えるという歴史は繰り返されてきた。対立が激しくなると、最も弱い部分への攻撃が強まって、そういう位置にある人が相手陣営に取り込まれることが多い。多くの場合、問題の根本的な対立の部分で切り崩されるのではなくて、別次元の問題で態度の変更を迫られる。身内の問題で便宜を図られたり、弱みを握られて脅されたり、お金で買収されたり、裏切りが起こる場合の理由は千差万別だ。
もちろん、本質的な問題で態度を翻すこともたくさんあった。そういう場合は「転向」と呼ばれる。拷問に負けて転向宣言を書かされることも多かった。こういう人の中には、相手陣営に取り込まれ、相手陣営のために積極的に働くようになった人もいた。

今回、紹介議員の1人の議員が、賛成の態度を反対の態度になぜ変更したのかは、全くよく分からない。本質的な点で態度変更をしたのか、それとも別の理由によって反対の態度を取ったのか。ただ、不思議なのは請願には賛成しながら、意見書に反対したので態度変更の在り方は、ものすごく中途半端だった。
こういうことだったので、この議員が何をどう考えていたのかは、なかなか推測できない。論理に一貫性はない。戦争か平和かという根本問題を真剣に考えていたのであれば、請願には賛成、意見書には反対という矛盾した態度は取れない。説明のつかない態度を取ったということは、本質論ではなく別の次元で意見書に反対したということだろう。
請願の趣旨と意見書の趣旨は全く同じだった。請願項目を意見書は100%踏まえていた。請願の文言には賛成できるが意見書はできなかったという論を立てることはできるだろうが、結論として2点の請願項目を踏まえ、全く同じ文言で国に政策の推進を求めたので、文章に異議を唱えて反対したという論理も成り立たない。

紹介議員が請願人を裏切って、態度を変更した問題は、他人事ではない大きな問題だ。国民は、近い将来、戦争か平和かの問題で9条改正の選択を迫られる可能性がある。国会発議が成立して憲法改正案が国民に発議されたら国民投票で憲法改正がおこなわれる。
「私たち日本は、海外で戦争に参加します」
こんなことを言って憲法9条の改正の是非が問われることはない。いつの時代でも、戦争への道は国民を誤魔化しながら進んでいく。

「なぜ、あのときにお父さんやお母さんは反対しなかったの」
という問いが戦後子どもたちの中から発せられた。
「戦争に反対するような状況にはなかった」
「事情があってね」
「私は立場上反対できなかった」
これが答えだろう。

戦前は、戦争に賛成しなければならないような状況をつくり出し、社会全体が戦争への協力を求めるようになっていた。あの時代に、戦争に反対することは、逮捕と投獄、拷問を意味し、場合によっては命まで奪われる危険を意味した。

戦争への協力は、まず政治の世界で始まるだろう。政治の世界は、行政の世界に直結しているので、公務員はこの問題に対して、仕事上態度表明が難しくなってくると思われる。
憲法改正発議が国民に対しておこなわれる状況を想像してほしい。公務員は自分の自由な意思を表明して、
「この憲法改正には反対です」と言えるだろうか。市町村合併の時でさえ自由にものが言えない雰囲気に公務員は置かれたのではないだろうか。
次に経済の世界でも押しつけは始まり、地域社会の中にも同じ問題が発生するだろう。戦争か平和かの問題は、国の在り方を根本的に変える大問題だから、踏み絵を突きつけられるようなことはたくさん起こるだろう。
請願の紹介議員が、何らかの理由で意見書に反対するようになったように、戦争への準備は組織的に反対できないような状況を作りながら進んでいく。

戦争が起これば、国民が犠牲になる。自分たちが戦争に巻き込まれる。憲法改正の目的は戦争への参加にある。うそとごまかしの宣伝の中で本質を見抜き、「踏み絵」だったり空気だったりする圧力を乗り越えて自分の意志で選択しよう。
憲法改正発議は、安倍さんの思い描く形になる。今回の改正は、憲法をより良いものに作り変えるためのものにはならない。
安倍さんたちは自由な憲法論議をするつもりはない。2020年までに改正したいとまで言っている。
「みなさんよりよい憲法を議論の中から作りましょう」
などという態度は全く取っていない。
自由な憲法論議を壊しているのは、安倍さんたちに他ならない。

現行の憲法を守れば、憲法を生かした政治に道が開ける。
国民が現行憲法を積極的に支持することは、憲法を生かす新しい力になる。
発議を許すな、憲法第9条を守れ。この運動が大切になっている。
その中で自由に憲法を学び議論をする。そういう広がりのある運動が求められている。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感,かつらぎ町議会

Posted by 東芝 弘明