次世代育成支援行動計画完成 2005年3月8日(火)

かつらぎ町議会

朝、娘を幼稚園に送っていく車の中で、娘とこんな会話を交わしました。
「お父さん、自然も生きているんやでな。人間みたいに心臓動いているのはわかれへんけど、葉っぱも生きているんよな」
「信号も人間が作ったんやけど、自然を壊してるんやろ。でも人間は自然のことをちょっとはわかってるんやろ」
「うん、わかってるんやけど、なかなかわからん人もおおいんや」
娘のこういう考え方は、園長先生のお話から来ているようです。
宗教ですごいなと思うのは、人間と人間以外の命あるものとを同列において見る見方です。
以前、手塚治虫さんの「ブッダ」を読んでいたとき、蛇と男の子が交渉して、男の子が蛇に願いを叶えてもらうかわりに、自分の命を差し出すという下りがありました。そこに通りがかった人に男の子は命を助けられました。しかし、男の子は泣いて「蛇との約束だったから助けてほしくなかった」と訴えるのでした。
蛇も人間も命の重さは同じ。このシーンはこういうことを考えさせてくれました。この考え方はすごいなと思いました。
人間は自分のことを勝手に霊長類だとかいって、全ての生物の頂点にあるように位置づけています。進化論からいってもこれは正しいのかも知れません。でも、地球という運命共同体のなかでの命ということを考えると、人間の命が一番大事ということではない気がします。
宗教の中には、こういうことを古くから考えているものがある気がします。
科学がそんなに発展していなかった時代、人間は自然を恐れるとともに、尊敬の念を自然に対して持っていたのではないかと思います。自分たちの力ではどうしようもない力を自然はもっているという自覚が恐れと尊敬を支えていたのかも知れません。
人間は、この自然をつくりかえる力を持ちました。宗教の言葉を借りれば、神が自然をつくったのに、この神が作った自然を人間はコントロールしようとしているということです。
しかし、結局は、この考え方は極めて傲慢だと思います。
究極のところ、人間は自然をコントロールできないと思うのです。
地球という箱庭の中で、自由自在に自然を作り変えても、それは所詮、宇宙船地球号という運命共同体の中での自由でしかありません。微妙なバランスの上に立つ地球という自然をよく知り、このバランスを壊さない範囲での自由しか人間には与えられていないことをよく考えるべきだと思うのです。
命の重みはみんな平等という考え方を認識した上で、命あるものから食料を分けいただいているということを私たちは忘れてはならない=別の言い方をすれば、人間もこの自然の一部にしか過ぎないということを忘れてはならないと思います。
娘の話にはこういう考え方が横たわっているのではないかと考えさせられました。
午前中、小学校の卒業式のあいさつを作りました。
今回のあいさつで子どもたちに贈りたいのは、「全ては疑いうる」という意味の言葉です。
難しくしないでわかりやすく伝えられるかどうか。少し心配です。
午後、1時30分から「次世代育成支援行動計画策定委員会」がありました。今日が最終の会議となりました。
健全な母性と健全な父性という文言に対して、意見を言わせていただきました。
母性とは「包み込む性」、父性とは「切る性」だという説明が新たについていました。
「100通りの家庭があれば、父性と母性の役割分担は、100通りあっていい。その多様性を認めるべきであって、健全な母性、健全な父性というような形で分けるべきではない。望まれない妊娠を避けるという文言もあったが、最初からシングルマザーになる例もある。女性は子どもを産みたいといったが、その女性の父親は、妊娠に怒り、出産に反対した。行政は子どもの出自がどうであれ、全ての子どもを育成するためにどうするかを考えるべきであって、健全な父性や健全な母性という考え方で見るのはいかがなものか」
しかし、この父性と母性を提案された委員は、「母親の中には、70%の母性と30%の父性があることが理想的といわれている」と話され、また「1歳半から2歳半ごろまでの母子密着の時期は母親の手で育てることが大切」とも述べられました。
こういう意見に対して私は、「3歳児神話という話がある。3歳児までは母親の手で育てるべきだという考え方は、神話にしか過ぎないという見解です」と言わせていただきました。
健全な父性と健全な母性という表現は、結局、性別の役割分担という日本の古い考え方を呼び起こしてしまいます。最終的には、「健全な」という文言をとっていただくということで決着しました。
子どもに関わっている部署で、母性の崩れのような現象に直面していることはよく分かっているつもりです。しかし、現在起こっている問題は、健全な母性や父性を復活させる中で健全な家庭が築けるというものではないと思います。
今起こっている事態は、こんな単純なものではないと思うのです。
これは、かなり議論の分かれる問題なのかも知れません。
家族の有り様はいま、変化の中にあると思います。これは経済的な生活様式のなかから起こっている変化でもあるでしょう。生活に対する展望のなさが、家庭にも色濃く反映しており、さまざまな歪みが子どもたちにも現れている面もあります。複雑に入り組んでいる問題を見据えながら、家庭の変化の多様性を認めて、新しい家族の有り様を模索していかないと、少子化対策にはならないと私は思っています。
もう一言えば、いま多くの直面している事態は、母性や父性の崩れと言うよりも、人間性の崩れという問題のような気がします。社会的なモラルが揺れ動き、曖昧になり、自己偏愛主義とでも言うべき傾向が強まっているなかで、自分の子どもを自分たちで否定してしまうような問題が起こってきているのではないかと思うのです。


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かつらぎ町議会

Posted by 東芝 弘明