絵についての勝手な言い分 2006年5月27日(土)

雑感

昨日、絵がわからないという話が出たので、こんな会話を交わした。
「自分の人生観とか世界観とか経験が、どこかで絵と反応する」
絵を描いた人は、絵を通じて何かを訴えかけようとしている。対象を見て、その見た対象を自分の中を通過して表現する。
見る人は、そうやって描かれた絵から何かを感じる。
ものすごく惹かれる絵に出会うことがある。
それは、自分の中に蓄積されたものと絵とが共鳴し合うのだ。
これは、作者の意図を読み取るのとは全然違う。
描かれた絵は、世に出した時点から作者の手を離れる。絵は、絵そのもののもつ力によって見る人と結びついて反応し合うのだ。
そういうものだから、積み重ねてきたものがものすごく違う場合は、反応しあわない。
世の中に認められた作品に対して、その作品のことがわからなくても悩む必要はない。
自分の中に絵が訴えかけてくるものを受けとめる土壌がないだけの話だ。
1つの作品から同じように感動する人がいる。しかし、その感動の深さには大きな差がある。
どれだけ深く絵からいろいろなものを感じ取れるのか。それは、どれだけ深く豊かに生きてきたかということと強くリンクしている。
今日は、新聞配達と街頭演説と訪問をおこなった。
お昼は、娘と2人で信濃路うどんでご飯を食べた。
窓の外で大きな水車が回っていた。
父親「水車はなぜ回っているのか?」
娘「ハイ。あの一つの区切りに水が入るとまわる」
父親「水が入るとなぜ回るの?。バケツに水汲んだことある」
娘「あるよ」
父親「重たい?」
娘「重たかった」
父親「あの区切りに重たい水が入るから回るんだよね」
こんな会話を交わした。
おじやうどんがおいしかった。


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雑感

Posted by 東芝 弘明