共産党攻撃の意味

雑感

日本共産党の議員として32年目になる。この32年間のかつらぎ町の歴史の中で、住民の願いを実現するという点で日本共産党の議員が果たしてきた役割は大きかったと思う。自分の活動のことでもあるので自画自賛として受け取られることを覚悟の上で書いておきたい。
日本共産党の議員が、地道に自治体の中で努力してきたことが、自治体発展のプラスになっているという自負がある。子どもの医療費の無料化の問題でも、学校給食の実現でも、市町村合併のときの議論の仕方でも共産党議員の存在は大きかった。
戦後、日本の地方史は、日本共産党の議員の存在なしには語れないという地域も多いと思う。

ソ連共産党と同じ、中国と同じ、北朝鮮と同じとか、会社の中で存在を忌み嫌ってきた経営者の影響を受けて、職場の中で差別され続けてきた歴史とか。こういうことが、地域の中でも共産党を排除することとつながっていた。
共産党の仕事に就いた頃、同和対策室というのがかつらぎ町にあって、そこの課長が、ぼくの同級生に「ぼくとは付き合うな。彼がなんて思われているか知っているか」という意味のことを言って、同級生同士の関係をさこうとしたことがあった。人間の差別の解消を掲げる同和室の課長の言い分として、こういう対応はぶっ飛んでいたと思われる。同和問題は解決しなければならないが、共産党という思想を差別するのは当然ということだった。

日本共産党員は、戦争に反対し、社会の中に国民主権を貫くために活動していた。迫害はそれ故に行われていた。日本共産党を排除すれば、支配の仕組みとしては安定するという考え方があった。それは今もある。この考え方が昨年の衆議院選挙で出てきた。政権に加わろうとする日本共産党を攻撃して、分断すれば野党共闘は壊れる。批判した側は、こういう確信をもって日本共産党を攻撃した。

日本の政治が、官僚主導から政治主導に変化したのは、考え方の転換ではなしに「仕組みの変化」にある。内閣官房と内閣府が大きな組織になり、官僚の主要な人事を統括するようになって、政府が国家全体を動かすように変化してきた。また、この変化とともに小選挙区制になって自民党総裁による支配の強化が実現して、自民党も内閣に支配されるようになった。

安倍内閣の下で完成したこの仕組みによって、政治は劣化した。強権政治の下で森友・家計学園問題や桜を見る会の問題がおこるとともに、文書の改ざんと隠蔽、統計の改ざんなどが盛んに行われるようになった。アベノミクスは成功していなかったのに、さも成功したかのように統計が改ざんされた可能性さえある。ここまで来たら、もう何でもありだろう。

こういう政治状況の中で、国民の手に政権を移すためには、野党共闘以外にない。日本共産党への攻撃は、当然出てくる。この攻撃にひるんで、野党共闘の体制を崩してしまえば、一気呵成に憲法改正とそれに基づく独裁政治の仕組みができあがる可能性さえある。国民の目の前にそういう事態が現れている。
集団的自衛権の行使、敵基地攻撃能力、緊急事態条項、憲法9条改正。この4つをキーワードにして、事実を丹念に追いかければ、危険な情勢は見えてくる。

マスメディアが批判力を失い、自己判断をする前に力関係を見て強い側について、強い側の言い分を垂れ流すようになった。メディアは、事実をありのままに、忖度なしに報道することという基本を失ってしまったので、とんでもない報道がふつうになっている。
昨日の夜は、維新の会の馬場代表にくっついて菅直人さんを訪問し、橋下さんへの発言は維新に対する批判だとして抗議文を突きつける動画を見た。橋下さんは維新とは何にも関係がないと馬場さんは言いつつ、維新の会創設時のメンバーだから、橋下さんへの批判は維新への批判だという訳の分からないことを言っていた。
どうして、こんな筋の通らない論議にメディアがゾロゾロついてきて、馬場さんが帰った後、菅さんに「公開討論には応じないんですか」なんて聞いていた。大丈夫か、日本のメディアは。
日本のメディアはこんな状況になっている。野次馬か、強い勢力のスピーカーか?というような状態だった。

日本共産党を含む野党の共闘なしには日本の政治は変わらない。ここが一番大事。こんなことで大局を見失ってひるんでいてどうするのか。


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雑感

Posted by 東芝 弘明