逃れられない帰納と演繹

雑感

帰納と演繹について質問をしてもらったのでコメント欄に書きました。自分でも分かりやすく書けたと思うので、ここに載せておきます。でも、どうも哲学の入り組んだ表現をブログに書くと、読んでくれる人が減るような感じがします。読むのが苦痛ということなのかも知れません。

それでも、しつこく人間の言葉がもつ論理について、書いておきます。その上で少しだけ付け加えます。

形式論理学の簡単な命題の一つは、A=B B=C ゆえにA=C というものです。この単純な命題が日常生活の中では、無意識のうちに多用されています。この命題を念頭に以下の部分を読んで下さい。以下の文章が、コメントへの回答に対して加筆訂正したものです(今日は「ですます」調になっています)。

帰納というのは、例えばAとBとの物質や事象について共通点を発見するということです。
これが科学の出発でした。比較して分類し、仲間に分ける。科学はまず比較分類学から出発しました。
しかし、帰納による共通点の発見という方法は、全てを証明するという意味をもちません。帰納的な方法で共通点を確認し、それを積み重ね、これこそが法則だと位置付けても、説明できない物質や事象に出会ったら、共通点から導き出した法則では説明がつかないことになります。
科学が明らかにしてきた法則は、この帰納的な方法から逃れることはできません。
帰納を積み重ね、明らかになった法則を根拠にして、物質の性質や事象の本質を見抜くのが演繹です。分類学によって共通点と違いが次第に明らかになるのと並行して、物質の運動法則についての解明も進みました。物質の運動法則を明らかにするためには、実験と検証が必要になります。帰納から出発して、仮説を立て、この仮説どおり物質が運動していることを証明するという研究方法には、演繹が必要になります。仮説の検証を通じて法則は明らかになりましたが、帰納は演繹の生みの親みたいなものですから、検証によって得られた法則も、たえず一定の条件の下で成り立つという、帰納の不確かさがつきまといました。

読んだ本(『賢い人の秘密』)は、人間が語っている論理は、帰納と演繹に縛られているということでした。たった2つを比較して共通点を発見したら、嬉しくなって一般化してしまう。統計によって明らかになった傾向を踏まえ、一般化して「法則だ」という。これにも帰納の不確かさが横たわっています。
演繹も多用されています。何らかの論理はみんな演繹的だということです。議論の前提になっている命題が間違っているのに、それが正しいと思い込んで、Aが正しいんだからCも正しいと論理を展開するということが、盛んに行われているということです。つまり、A=Bが正しいのであれば(もしくはこの関係が証明の必要のない前提になる場合もある)、飛躍してA=Cも成り立つという論が多いということです。

少ない経験からの一般化は、帰納の危うさをものがたり、根拠の曖昧な論理は、演繹的な危うさをものがたっています。帰納と演繹という言葉を知らない人もすべて、帰納と演繹という論理を使っており、全ての人は、この論理からは逃れることはできないということです。
最近の政府の主張は、演繹的な誤りだらけです。証明されていない前提を踏まえ、論理を展開することが極めて多くなってきました。政府のごまかしを見抜くためには、帰納と演繹という概念についての認識が必要になります。


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雑感

Posted by 東芝 弘明