昨日の続きを書いてみよう

雑感

日本共産党が街頭宣伝をいっせいにみんなで行うときに、よく作るのが演説参考例。同じ原稿で宣伝することの意味はある。その地域で世論を形成するときに、地域にビラを配布しながら演説を行って宣伝効果をあげるというものだ。これはこれでいいと思っている。しかし。議員の場合、誰かが作った演説原稿がなければ、演説ができないという領域に留まっているのはよくない。誰でも演説が最初から上手なわけではない。でも、自分で演説原稿を作って、自分の言葉でしゃべる練習を重ねないと、自分の言葉でしゃべる演説にはならない。そのときに引用と切り貼りの演説原稿を作る領域に留まると、昨日書いたように「日本共産党はみんな同じことをしゃべる」ということになる。

自民党の方には、自民党による演説参考例なんてない。情報は党からはほとんど出ていなくて、あるのは一般紙。政府の言い分は世間と同じなので、毎日発行されている新聞や報道で知ってくれというスタンスだろう。日本の新聞が政府広報のようになりつつあるので、自民党は普通の宣伝物でいいと思っているだろう。そう思いつつ、自民党の幹部から見て歪められた報道があれば「怒る」という態度を取る。

日本共産党には、党中央委員会が発行している「しんぶん赤旗」がある。党幹部の委員長や副委員長、政策委員会の委員長などの幹部の演説は赤旗の紙面で紹介されたりしている。もちろん、すべての演説が紹介されるわけではない。最近は映像配信が簡単にできるようになったので、映像を見て下さいというのも増えている。これで集会なども行ったりするので、昔以上に楽になっている。でもね、こういうことばかりしていると、政治を自分の言葉でしゃべらなくなる。自分の言葉でしゃべらない傾向はよくない。

党の仕事に就いている人の中には、党中央の表現どおりしゃべるべきだと思っている人がいる。ぼくよりもはるかに年配の人にそういう人が多かった。正確に党の方針を伝えることが大事だと考えていたのだと思う。何度も党中央委員会の決定を読んで、内容を理解して、それを正確に伝えるという努力がそこにはあった。
しかし、党中央委員会の決定文書は、たとえば11月1日に決まったのであれば、その時点では新しい情報にもとづいて作った文書ということになる。情勢は日々変化し、事件は全世界で発生している。日々新しい出来事の中で、党中央も対応が迫られる。当然、決定文書に書かれていないことが数多く発生する。
そういう未知のものにも対応するためには、ものの見方考え方の基本が必要になる。日本共産党の場合は、国内外の基本点を分析し、こういう未来対社会を展望するという党綱領がある。またそれを支えている科学的社会主義という閉じられることのない論理がある。自然科学や社会科学の発展によってその形態を変える哲学と経済学が科学的社会主義を支えている。閉じられない体系というものの見方考え方は面白い。
こういう土台の上に立って党の活動はあるのだけれど、日常の問題に対してはどうするのか。これが面白い。
多くのことを根拠をもって明らかにしたい文書、つまり論文には、文章を通じてそこに流れている精神や哲学がある。論理の展開や構造がある。これを十分に把握し理解して生かすことが求められる。党の文書以外の論理を扱っている文章はみんな同じ。本や文献の中で展開されている精神や哲学や論理構造を学んで、自分の中にそれを生かす努力が大事になる。「生かす」行為はアウトプットになる。アウトプットするときに、自分という媒体を通過して、得た情報を外に出す。これが得た物を血肉化する道だ。日々、そういうことを繰り返していると、自分の考えは鍛えられていく。

学んだことを正確に出す努力は拡声器と同じ。ここに神経を集中していては新しいものは生まれない。そんなことばかりしていると応用もできなくなる。自分の体内に取り込んだら、取り込んだものを柔軟に生かすことの意味の方が大きい。もちろん、論理的な文書を書く場合は、正確な引用を行って、新たな論理を展開するようにしないと、説得力は生まれないので、論文というのはそういう形を取る。新しい事実を提示するためには、論理の橋渡しはどうしても必要になる。

『哲学するってどんなこと』(金杉武司著)という新書版をイオンの中の本屋さんで買ってきた。半分ほど読んだ。哲学へのアプローチの仕方を書いている。その中には時間というやっかいなものを例にとって、哲学の思考実験について書かれている。それはそれで面白い。でもそこから得られる知見はあまりない。これに対して科学的社会主義の哲学は、哲学の基礎に自然科学の成果を置いている。時間に対してどう考えるのかという問いについては、まずそれは自然科学の成果に耳を傾けようとなる。ここから科学的社会主義の哲学は始まる。
時間は物質の運動のプロセスによって測られるものであり、物質の運動と不可分に結びついている。物質の運動が光速に近づくに従って、時間はゆっくり進むようになる。時間は絶対不変の箱ではない。時間も伸びたり縮んだりする。これが自然科学が明らかにした時間に対する知見だ。思考実験は必要だが、そこから始まる哲学ではないというところに面白さがある。

自然科学者の佐治晴夫さんが、物質が何もない状態から宇宙が始まったという話の中で、物質が何もない状態というのは、時間も空間もエネルギーもない状態だと説明していた。これは仏教の「空」よりも深い。面白い。
科学的社会主義の哲学は、唯物論の基礎の上に立ってものを考えるようになった。それは、たえず明らかにされていく物質の研究の成果の上に立って、哲学を発展させるものであり「誰かがこういった」という点を超越している。
しかも、徹底した物質の研究は弁証法的に物質が存在していることを日々明らかにしている。AからBへの転化、又はその逆。エネルギーと物質との関係など、自然科学は、人間の通常の常識をはるかに超える柔軟性をもって発展している。柔軟性への理解なしに自然科学は成り立たない。
物質の運動と存在の仕方の柔軟性を知ることが、柔軟性を身につける力にもなる。完全なる男性と完全なる女性などはないというのも医学を含む科学の知見だ。性というものは男性と女性との間でグラデーションをなしている。自分自身も男と女の間にあるので、多様な性の一部をなしている存在となる。この上にたってジェンダー平等がある。そういうことを知ると面白い。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明