町民農園でも余剰農産物の販売は可能

雑感

町民農園について調べていると、自分の家で消費しきれない余剰農産物ができた場合は、販売できることが分かった。国の通知でこの問題は明確に許可されている。インターネットの検索ですぐにこの文書は見つかった。
恥ずかしくなった。

ぼくは、9月議会で自家消費したあとそれでも余った農産物については、販売しても「営利を目的とした」ということにはならないのではないか、と質問していた。この質問に対して、町は明確に答弁しなかった。
迂闊だったのは、ぼく自身が国の文書なりを自分で調べなかったことだ。課長の説明した範囲でどういうことなのかを調べただけで、ことを済ませていたのがいけなかった。自分の責任で物事を徹底的に調べるという態度を取っていれば、9月議会が終了してから、ことの本当の姿が明らかになるということは起こらなかった。

議会の議案調査では、課長に対する聞き取りを重視する。しかし、聞き取った上で疑問が残る場合には、自分でさらに調べるという態度が大事だということを教訓にしなければならない。
物事は、検証されなければならない。もちろん、証明しきれない問題は大量に存在している。不確かな状態のまま、もしくは一知半解(生かじりで十分理解できていないこと)のまま、分かったようにしてしまって、調査しないという態度では、物事を徹底的につかむということはできない。これでは、事態を切り開けない。

話を聞いただけで了解してしまう態度は、「聞き学問」という域を出ないので、「聞き学問」ではだめだということを、党の議員団の中では繰り返し語ってきた。でも自分自身が「聞き学問」という傾向に陥っていた。ここには、活動に対するマンネリがある。
きちんと資料を確認する、事実を確認する、法律にも国の通知にもあたる、ということを徹底的に積み重ねることなしに了解してしまわないという態度を肝に銘じる必要がある。

問題意識をもって、事態を追及する。新しい事実が分かる。この事実にもとづいて問題意識や認識を発展させる。
問題意識は、出発においてきわめて大事な役割を果たすが、この問題意識にとらわれたままでは、事実に肉薄できない。大事なのは、問題意識をもって事実を追及する。新たに得た事実にもとづいて物事を具体的に考える。新たに得た事実にもとづいて、認識を発展させる。ということだ。認識を発展させることによって、新たな問題意識が生まれてくる。

ぼくは、このような方法論を大事にしてきた。議員活動の調査というのは、いつもこういう形をとってきた。物事を調べる起こりは、生き生きとした直感である場合が多い。問題意識というのもこういう直感に支えられている。しかし、この出発における直感なり問題意識は、表面的なものであることが多い。もちろん、最初から本質をついていることもある。でも、この最初の問題意識にこだわりすぎると、大きな誤りを犯すことになる。
最初に得た問題意識にこだわりすぎると、この問題意識に合致した事実しか見られなくなる。問題意識へのこだわりは、自分の主観で都合のいい事実を裁断して手に入れることになる。人は、問題意識なしには、物事の事実や真実を追求できないが、新しく得た事実に対して、その事実から学ぶ姿勢がないと、極めて主観の強い歪んだ認識になってしまう。
こういうものの見方をする人は、まわりにも存在する。見ていると非常に主観的なものを感じる。自分の問題意識に合致するものだけを大事にするようなことが見えてくると、「違うのになあ」と思ってしまう。

人間の認識は、どこまで行っても主観的なものだが、その認識をより客観的なものを含んだ認識に発展させるためには、把握した事実から学ぶということが必要になる。自分の問題意識を超えるような事実に出会えば、認識をあらためるという作業が必要になる。
イメージ的にいえば、新しい事実を前にして、自分の問題意識や認識が、どんどん塗り変わっていく、もしくは、音を立てて壊れながら、同時に再構築していくという感じだ。この塗り変わりや再構築が楽しい。それは発見と変化の連続であり、感動をともなうものだ。

今回は、課長の行った説明に疑問を感じながらも、この疑問にもとづいて事実を調べようとしなかったところに問題がある。あの時にもう少し調べていれば、事実を発見して質疑は変化したのに、と思う。
「止むは我が止むなり」
このことを肝に銘じたい。


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雑感事実から学ぶ,問題意識,町民農園

Posted by 東芝 弘明