学問の自由に教育も含むべき

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日本国憲法第23条は次のように書いている。
 「学問の自由は、これを保障する。」
憲法が規定している学問の自由は、大学における研究の自由、研究発表の自由、教授の自由をさし、義務教育などには、この規定が適用されないらしい。つまり学問の自由とは、大学の自由と同じ意味として理解されてきたようだ。しかし、この説に対し、学問の自由の中には、学校教育における自由も含まれるという説もあるという。
1947年に制定された旧教育基本法は、学問の自由に関わる規定をもっていた。それは、第2条の規定だった。

「第2条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」

この規定が興味深いのは、社会教育とともに学校教育もこの規定に入ると位置づけているところにある。
ぼくは、学問も自由に学校教育も入れるべきだと思っている。
学校教育と学問的成果には、境界線はない。
君が代を国歌とし、歌うよう義務づけるというのは、学問の自由を侵している。
少なくとも日本の学問は、君が代に対し一致しない見解を数多く含んでいる。
是とする側と否とする側に見解は大きく分かれている。
君が代が歩んできた歴史は、十分研究に値する。テーマとして面白い。
国会で君が代が国歌になったとはいえ、君が代をどのように受けとめるのかというのは、近代日本の歴史をどのようにとらえるのかという、近代史の根本問題にも絡んで、きわめて大切なテーマになっている。この問題に対し、自由に調べ議論し、自己の認識を培うのは、向学心を培う上でも重要な意味をもつ。
こういう近代史の謎にも関わる面白い問題を、一方的な価値観と教えにもとづいて、「教え込む」のでは、子どもたちの中に豊かな認識と学問的探求心を培うことはできない。学問する心は、大学だけで培われるものではなく、小さい頃から意識的に培われるべきものではないだろうか。自由に探求心を育んでいく教育をおこなわないと、好奇心と探求心を持った大学生は生まれない。
ぼくは、そんな風に考える。
教育にタブーがあってはならない。天皇制も神話も学問の対象、教育の対象とするのであれば、批判的に学ぶという視点が当然必要である。
神話を教えることがあったとしても、神話を神話として教えることが大事なのであり、神話を通じて日本人の心のあり方などを学ばせるとか、日本古来の歴史や伝統を教えるとかいうのは、根本的におかしい。
神話を相対化し、なぜこのような神話が誕生したのか、というようなテーマをもって追求すれば、神話の面白さも倍増する。ギリシャ神話と日本の神話の違いなどを比較すると見えてくるものもあるだろう。
一つの価値観にもとづいて、教育をおこなうのは、教育とはよべないのではないだろうか。
それは、国民を一つの歴史観、一つの価値観に流し込むものだ。
洗脳、といってもいいだろう。
国を愛する心というのは、自然発生的に生まれるものであり、教育の中で教えるものではない。人間の心のあり方にまで、国が介入し、日本人はこうあるべきだという一つの鋳型を教育の中で子どもたちに押しつけていく国というのは、恐怖の国だ。
人間の心の有り様について、こうあるべきだというのは、国家による国民意識への介入だろう。
教育や学問は、既定の事実をたえず批判的にとらえる中で発展する。学問的な到達点を学びながらも、その到達点に対したえず批判的な目を加えて、到達点を相対化してとらえ直すという視点が大事だということだ。
神話を批判的にとらえ直す、
君が代を批判的にとらえ直す、
天皇制を批判的にとらえ直す、
そうしてはじめて豊かな認識が培われていく。
学ぶということは、その積み重ねだ。
学習指導要領は、国民の自由という侵してはならない領域に入ってきて、国民を支配する役割を担いつつある。
国歌がだんだん黒歌(こっか)や酷歌(こっか)になりつつある。


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Posted by 東芝 弘明