共産という名前に対する追記

雑感

『「共産」は共同で生産するという意味です』という題の記事を書くと、Facebookに意見が寄せられた。
「デンマーク語では、「〇〇市」は「〇〇Kommune」と言います。例えばコペンハーゲン市は、"Københavns Kommune"です。お分かりかと思いますが、"Kommune"は、英語のコミューンです。コミュニズムも同じ語源ですよね。多分、ドイツなども同じではないかなぁ。」
「コミューンというのは、市だけでなく、村や町も表す言葉で、この場合は、やはり共同体という意味がピッタリくるよな。共産党は、英語で"communist party"やから、communismを思想とする人々の政党という事になる。このcommunismをどう訳すかということやね。中国語も共産党やけど、日本語訳とどっちが先やったんかな。」
「ドイツ語でもKommuneという言葉があって、自治体とか生活共同体と訳されているようです。やっぱり共産より共同の方が語感的には近いのかなぁ。」

こういう意見に対して、ぼくは次のようなコメントを書いた。
「共同という意味をもつコミューン、共同して自治を行う、政治を行うという意味をもつコミュニズムを明治の人はどうして共産と訳したのかというと、日本共産党によれば、財産を共有する危険思想だとして、共産と訳したところから始まりました。となっています。
では、共産という言葉は、財産を共有するという誤訳だったのか。
日本語訳として間違っていたのか。
中央委員会が、読者の問いに対して答えたときは、そこまで踏み込んでいませんでした。
危険思想だと宣伝するために使われた共産という「誤訳」を、日本共産党は、すでに使われていたからという理由で、日本語訳として採用したのかどうか。
誤訳なのかどうかということには、ほとんどこだわらずに元々の意味は共同だからいいやということで、訂正しなかったのか。
ぼくは、本当に誤訳だったのかどうかも含めて、日本語を考えるべきだと思っています。
財産の共有という考え方は、マルクスには、全くありません。
ではなぜ明治の知識人が、共産という訳を当てたのか。雑多な共産主義的なものから共産=財産の共有を導き出したのかだと思います。
社会主義・共産主義の社会の根本に、生産手段の社会化があります。これは、土地や建物、工場の機械や原料などの生産手段を社会が管理するということです。
これは、共同で生産するという意味です。
ここに着目すると、共産という言葉は、共同で生産するという意味を持っていたのではないかという可能性が出てきます。
共産の語源は共同ですというのをコミューンやコミュニズムからだけで説明するのではなく、日本語訳の意味、日本語としての意味を積極的に押し出す必要があると思います。
共産という意味には財産の共有という誤訳が含まれていたが、この訳を採用したのは、生産手段の社会化をとらえて、共同で生産するという意味で共産党としたということを考えるべきではないかと思うのです。
共同で生産するから共産党です。共は共同の共、産は生産の産、産業の産という説明は、生産手段の社会化という説明としては、間違っていないと思いますが、いかがでしょうか?」

明治の初め、コミュニズムを共産主義と訳した人物は、特定できそうだ。しかし、当時のコミュニズムは、マルクス・エンゲルスのものではなく、プラントンの思想、ユダヤ教、トマスモアのユートピア、サンシモン、ロバートオーウェンのようないくつもの考え方を示すものであり、財産の共有というマルクスとエンゲルスにはない考え方をもって、共産主義と訳したということらしい。
マルクスの『共産党宣言』が翻訳されて紹介されたのは1904年だったようだ。共産主義という翻訳がなされてから30年ほどが経っている。

共産という言葉に財産の共有という考え方があり、それをコミュニストの訳として当てたというのであれば、誤訳したということになる。しかし、日本社会の中で広く定着した共産主義を使うのであれば、日本語としての共産に、間違いのない意味を重ねることが大事なのではないだろうか。
幸いなことに、共産の産は、産業の産、生産の産でもあるので、共産の意味として共同で生産するという意味を共産に与えれば、生産手段の社会化を社会主義・共産主義の基礎に置く政党としては、矛盾なく理解してもらえるのではないだろうか。
共産党という名前を変えない理由にはいくつかあるが、この名前に、より積極的な意義を見いだすようにすればいいのではないだろうか。


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雑感

Posted by 東芝 弘明