「ちりとてちん」から感じたこと

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今週の「ちりとてちん」を見て、家事を一生懸命することの意味を考えさせられた。見習いの期間として、炊事、洗濯、掃除などの家事をするヒロインの喜代美ちゃん。
彼女は、家事ばかりさせられて落語を教えてもらえないのか、理解できなかったけれど、次第にこの仕事の意味を理解していくというシーンがあった。
まわりの人が気持ちよく生活できるように、気を配って立ちふるまう。そういう気配りができるように、体に染みこませていく。自分の体に覚え込ませていく。
家事には、そういう意味があった。
「落語家は、人を楽しませる商売や。まわりの人が気持ちよく生活できるようにするんや」
草源兄さんの言葉が、やがては、喜代美ちゃんの胸にしっかりととらえられ、家事に精を出すようになる。──これがドラマの流れだった。
まわりの人々の気持ちを感じとれる人間。相手が望んでいることを関知して動ける人間。そういう人間は、まわりの人のためにかいがいしく動く中で、体に染みこむ形で身についていくもの。──そう思う。
これは、頭で理解するものではなく、体を動かして会得するものではなかろうか。
相手の気持ちを感じとって、動けるようになるのは、簡単ではない。
こういう感性は、何によって培われるのだろうか。
今日、苅谷剛彦さんの本を読んでいると、学校というSystemの中にある見えないカリキュラムという話があった。
授業の中に組み込まれていないカリキュラム。いやな授業でもじっと耐えて机に座っていること、時間が来ると教室に入り授業を受けること、授業中静かにしていること、などなどは、見えないカリキュラムの一つだという。
学校で一生懸命掃除をすることも、まわりの人のためにかいがいしく動く人間を育てるという、見えないカリキュラムの一つなのかも知れない。
こういう行為を通じて体得していくことの中に、人間にとって非常に重要な、生き方の基本となるような姿勢の涵養というものが含まれている。ぼくはそう思う。
人間は、言葉で物事を理解していく力ももっている。しかし、体を動かし、自分で何かを発見し、体得していかなければ、自分のものにならないことの方が、頭で理解することよりも、はるかに多い。
行為が人を育てる。──これは、教科の学習にも言えるのではないだろうか。
最近、ぼくは、「学びあいの学習」が大切だと思いはじめている。人に教えてこそ、物事への理解が進むということは、ものすごく多い。
行為の積み重ねによって、人間は成長するし、考え方を身につけるし、学んだことを自分の中に定着させる。
学ぶ側よりも、教える側の方が、学習内容をより深く理解する。インプットよりもアウトプットの方が、はるかに次元が高い。
家事をおこなうことによって、まわりの人が気持ちよく生活できるようにする。こういう姿勢と感性を培うことは、自分を豊かな人間にする上で、ものすごく大事なことだと思う。
行為が人を作る。行為によって人は豊かに成長する。まわりの人の役に立とうと思って、一生懸命に動く。それが人間を育てる。
「情けは人のためならず」
二都に情けをかけることは、自分自身の成長に直接つながる。
「うちの子は、家でも掃除をさせていないので、掃除を学校で教えることは、やめて下さい」
新聞に報道されていた、モンスターペアレンツの言葉。
こんな考え方では、人間は育たない。
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未分類NHK

Posted by 東芝 弘明