精魂込めて書く

文学

宮崎駿 精魂込めて描いた人のひとり
宮崎駿 精魂込めて描いた人のひとり

乙部宗徳さんに、Facebookで2014年7月号の「民主文学」に久野通弘さんの「いま、文学ができること」という評論があることを紹介していただいた。自分の家の本棚から7月号を引っ張り出してきて、読んでいると、須藤みゆきさんは、2013年1月から5月まで「月の舞台」という小説を「しんぶん赤旗」の日刊紙に連載していたことを知った。
「『月の舞台』が本になっていますように」
こういう気持ちでGoogleで「須藤みゆき 月の舞台」で検索をかけてみた。
リンクが何本も現れてくる。
ヒットした最初のページに“「やさしい光」によせて 東芝弘明の日々雑感”という記事があった。
驚いた。これは一体何だろう。
クリックしてみるとぼくの2007年3月8日のブログ記事だった。
「やさしい光」によせて
今回、「やさしい光」を読んだとき、小説を読んだ既視感は全くなかった。読んだとき、頭の中に浮かんできたのは、かつてこの小説について、誰かの評論を読んだことがあるかも知れない、ということだった。誰かの評論。それは、ぼく自身が書いた感想めいた記事だったのかも知れない。
ぼくは、認知症なのか。衝撃は別のところから湧いてきた。
須藤みゆきさんの作品に出会ったのは7年前だったのだ。そのときも強烈な印象を残していた。なのに2014年の秋に初めて出会ったかのように作品を読んだことになる。

「しんぶん赤旗」に連載された「月の舞台」も読んで見たい。しかし、現時点ではこの夢は叶わないようだ。
九野通弘さんの評論には、「須藤が『人間は格差と貧困を乗り越える力をもっているのではないか、それは何かを描きたい』というモチーフに発展させていったことは、注目に値する」と書かれている。このような評価は、ぼくがこの前書いた「須藤さんは、絶望的とも言えるような過去の自分の暮らしに徹底的にテーマを求めて、渾身の力を振り絞って書いてきた中で、次第に希望を据えるようになりつつある。ぼくにはそう見えた」という感想と共通していると思った。

小説を書きたいという思いがある。しかし、このことを書かずにはいられないというほどの強いものがあるのかどうか。ということを確かめなければならない。どうしても書きたい、どうしてもこのことを伝えたいという強い思いに支えられないと、作品には力が宿らない。それは、作品を書こうとするモチーフということなのかも知れないが、人に伝えたい強い何かがなければ、読み手に伝わらないということではないか。須藤さんの作品には、読み手を引きつける力強いものがある。その力強さが、次第に希望へと向かっているような感じがするだけで、作品への未来を感じる。
ここには、文学作品とは何か、ということを考える上で大事なテーマがあるように思う。

ぼくは、議員なので一般質問や質疑の準備を行う。質問に精魂をこめる。自分が準備をしたプロセスで得た発見や思いを質問原稿の中に入れていく。そこに質問の力が宿ると思っている。質問を聞いている町長や課長や議員や傍聴の人々の気持ちを引きつける質問は、テクニックによって成り立つのではないだろう。もちろん、質問の展開の仕方には、技術論的な側面もあるのだろうけれど、それよりも提案する内容についての確信こそが、相手の心に届くのだ。自分がどれだけ視野広く準備し、物事と物事の連関を見極めつつ、組み立てるときにはできるかぎり問題点を絞り込んで核心に迫っていくことが大事になる。準備の中での発見、つかんだ物事の本質、それらが質問が生きる力になる。
ビラや選挙のリーフも作るのだけれど、精魂を込めて作ることによって、読み手に伝わる何かが生まれるのは、質問と同じだと思っている。

須藤さんから学んだことは、「精魂込めて書く」という姿勢なのかも知れない。


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Posted by 東芝 弘明