個人の自由が生かされる組織へ、社会は動いていく

雑感

栗

高校を卒業し半月ほど経って日本共産党に入党した。3月16日だった。1978年だから今から37年前になる。大学には、日本共産党員として入学した。学びたいのは、マルクス主義の経済学だった。当時、大学の経済学の半分はマルクス経済学だった。
一年間、みっちり経済原論を学ばせてもらえたのは幸せだった。

日本共産党の組織の運営は、37年前と今とはかなり大きく違っている。民主集中制という組織運営の原則は、当時も今も変わりはないが、当時は集中に力点があるようだった。今は民主主義に力点がある。日本共産党も社会の動きや空気を色濃く反映する。当時の日本には、モーレツ社員という言葉があった。
モーレツ社員を検索すると『知恵蔵(2015年)』がヒットした。紹介しておこう。
「会社への忠誠心が非常に高く、自らや家庭などを犠牲にしてまでがむしゃらに働くサラリーマンのこと。猛烈社員、企業戦士ともいわれる。1950年代〜70年代の日本の高度経済成長期に生まれた言葉で、バブル経済崩壊後は賃金カット・整理解雇・非正規雇用の増大などにより、属する企業への忠誠心が薄れモーレツ社員は減少している。」

会社への忠誠心が非常に高かった時代、自分や家庭よりも会社への忠誠心が上という傾向があった。この時代、日本共産党のも同じような傾向があった。自己犠牲的な精神とか、献身性、不屈性が日本共産党員の生き方として、美徳のように思われていた。日本共産党が特殊だった訳ではなく、日本社会を鏡のようにして、日本共産党にもそういう傾向が反映していたということだろう。
1970年代より以前の戦後の一時期、日本には非常に荒々しい時代があった。役場の職員でもバクチに明け暮れていた人や、平気で飲酒運転をしていた人もいた。飲酒運転も大目に見るような傾向があった。戦地から帰ってきた男性の中には、非常に暴力的な人がいたので、社会全体の気性は荒々しかった。こういう社会的な傾向が社会的な雰囲気を作っていた。モーレツ社員というのもこういう傾向の一つの現れだった。

会社への忠誠心は、バブル崩壊後薄れ始めた。2000年以降の労働法制の規制緩和によって、年功序列や終身雇用が壊れ始めると、会社に対する忠誠心によって会社に帰属させるような傾向も壊れ始めた。
時代は、紆余曲折をへながらも個人の自由を認める方向へと進んでいる。2015年。国会前には、自分の言葉で戦争法反対を叫ぶ若者が現れてきた。戦争法案を自分の頭でとらえ、自分の言葉で考え、表現する若者の出現だった。若い世代でない年配の世代は、自分の言葉で自由に戦争法案STOPを語る若者に心惹かれた。

日本共産党中央委委員会が「支部が主役」という言葉で党活動を発展させる方向を打ち出したのは1993年7月の総選挙だった。党大会でこの方針を全面的に明らかにしたのが1994年7月の第20回党大会だった。この活動の基本方針は、2000年の党規約改定でも貫かれた。この2000年の党綱領改定は、日本共産党を前衛政党だという位置づけを変えたものだったし、党規約全文の全体を削除したものだった。バブル経済が崩壊したのが1992年。企業への忠誠心が壊れはじめる中で、日本共産党は、かなり早く党内の民主主義を重視する方向に方針を発展させたということだと思う(あくまでも私見です)。
この組織論の発展は、日本社会における自由と民主主義の発展方向をいち早く示すものであり、「組織と人間」という古くて新しい問題への、日本共産党による新鮮なアプローチだった。

組織に入ると「組織に縛られる」というような意見は、まだまだ広く存在する。実際に組織に入ると、個人の自由を制限したり、時には人間を徹底的に支配するような組織が存在する。しかし、同時に一方で個人の力が生かされる組織というものも数多く生まれているのではないだろうか。
このような傾向は、今後ますます広がってくるように思う。

これと表裏一体の関係で、組織のリーダーのあり方が変化している。モーレツ社員の時代は、指導力のあるリーダーが組織を引っ張っていくというイメージが強かった。民主的な組織だといわれるいろいろな組織でも、リーダーの認識や決意が、組織の発展を大きく左右するというような言い方が、当たり前のようにして語られていた。
しかし、現代社会の中で、求められているリーダーというのは、指導力を発揮して周りの人間をぐいぐい引っ張っていくようなものではなくなりつつある(少なくともぼくにはそう見えている)。多くの人々が自分なりの考えをもちはじめ、自分の意見を述べる傾向が強くなっている。個人の尊厳が尊重され、個人の意見が尊重される時代に変化している。こういう変化の中で、会議のあり方でも、自由な発言と個人の意見の尊重が必要な時代になりつつある。会議では、多種多様な意見を出し合いながら、合意を形成するためには、発言者の意見の尊重と自由な意見交換による合意形成が必要になっている。異論を尊重することと合意を形成することは矛盾するようで矛盾しない。民主的な会議というのは、意見の尊重と合意の形成との統一が必要になる。
そういう組織のリーダーは、組織を構成している人間の力を引き出すという点に力をさかなければならない。こういう力はマネジメントだと思われる。強引にカリスマ性を発揮して、時には命令を発し、時には圧力をかけて人を動かすような人間が求められているのではなく、集団の力を上手に引き出すコンダクターのようなリーダーが求められている。
日本共産党の「支部が主役」という方針も、こういう流れの中にあるものだろう。

組織の中で個人の個性が認められ、一人ひとりが生き生きし、力を合わせることによってみんなが充実感を味わう。これが現代社会に求められる組織のあり方だろう。
これは、難しい理想論のように聞こえるかも知れない。こういう組織運営に習熟するためには、マネジメント論や会議運営のファシリテーション論というものを学ぶ必要もある。民主的な組織が、自動的に民主的な組織運営に長けるというようなことはない。
一例だけあげておく。
年配の方々は、お祭りなどに参加するときに一生懸命に裏方に徹する傾向がある。ビンゴ大会などを行うと裏方精神が前面に出て来て、ビンゴを引き当てても、役員だからということで当選を辞退するような傾向が出てくる。しかし、若い世代の考え方は全く違う。裏方ばっかりするのは損だという考え方が根底にある。みんな平等なんだから、運営スタッフもビンゴ大会に参加して、商品をゲットしたい。こう考える。そのことを曖昧にしておくと、「私たちがどうしてビンゴ大会に参加できないんですか」という意見がクレームのように出てくる。
「裏方の仕事をしても裏方だけではいや、自分たちも楽しみたい。楽しめないのはおかしい」
これが共通した感覚だろう。

組織に入ったら自由が束縛される。この考え方は、これから先、多くの組織の具体的な姿を通じて克服される。どんなに時代が反動的な方向に向かっているように見えても、自由と民主主義を空気のように求め、それを体現していく流れを押しとどめることはできない。


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