小説の力、文学の力
打田のオーストリートの中にあるCoCo壱番屋の前の駐車場に車を止めたときも結構雨が降っていた。駐車場に入る道の前に郵便局があった。「そうだ、この郵便局から会費を振り込もう」そう思いながら、CoCo壱番屋のドアを開けた。カウンターで3倍の辛さのカレーを食べてから目的の郵便局に行った。送金用の振込用紙は、昨日、事務所で金額を書き込んでいた。会費の合計は3万5800円になった。年末、払うことができなかった各団体の会費だ。この会費の中には『民主文学』の1年間の準会員費も含まれていた。
郵便局のドアが開いて中に入ると、フクロウがたくさん飾られているのが、目に飛び込んできた。待合のソファーがあり、すぐ目の前がカウンターだったのでフロアのスペースは非常に狭い。壁一面にフクロウのぬいぐるみやイラストがふんだんに飾られていたが、カウンターの向こうにもフクロウによく似た女性の事務員さんもいた。
「この封筒にお金を入れたらいいですか」
若い男が現金書留の記入を終え、フクロウさんにそう尋ねた。
「はい、そこにお金を入れて封をしてください」
フクロウさんが笑顔で答えた。
昨日、民主文学5月号が自宅に届いていた。雑誌の表紙に須藤みゆきさんの名前があったので、さっそく『月の舞台の向こう側』を読んだ。こころに染み込んでくる小説を読むことは、日常の生活にみずみずしい感覚を付け加えてくれる。一度しかない人生を反芻して二度体験するように味わい深く生きるためには、文字による文学の世界が必要になる。毎日体験している人生の出来事を言葉の力によって、みずみずしく捉えなおするためには、心に沁みる小説などが必要だ。
須藤さんの作品世界は、自分の体験と重なり合うところがあるので、読むたびに胸の中にいろいろな思いが染み込んでくる。言葉の力とでもいうようなものが、自分の中に新鮮な視点を与えてくれる。
須藤さんは、自分の人生にフィクションを交えて、短編を積み重ねてきたのだと思っている。それは、自分が歩んできた人生をさまざまな角度から照らし直すような行為だと思われる。彼女の場合、照らしている光は月明かりのようなものではないだろうか。
ぼくの友人には過去をふり返らない人がいた。思い出を問い返してもいつも「覚えていない」という答えが返ってきた。同じ50数年という人生を生きてきて、過去をふり返らないというのは、何ともったいない人生を生きているのだろうか。自分の生きてきた道や自分の行った行為を、反芻するように思い返して、さまざまな角度から照らし出して考え直すことは、人生を何度も体験し直すことにつながる。幾重にも布が重なるように人生を味わいながら生きることは、楽しいものでもある。それは、これから体験することについても豊かな視点を付け加えてくれる。
出来事というのは、ぼくたちが思っている以上に多面的な側面を持っている。自分の人生であっても、自分の体験していることを完全に把握し尽くせない。ぼくたちはいつも、豊かな事実からごく一部の事実を捉えているに過ぎない。体験しているのに理解していなかったり、事実を深くとらえられなかったりすることは多い。
自分の体験から深く学ぶようになるためには、文学の力が必要になる。この文学の力というものは言葉を媒介にした力でもある。たとえば小説を読んで、胸の中に思いが洗われるようなものが残れば、言葉によって得られたその力によって、自分の体験を捉えることができるようになる。それは、ほんの少しずつ自分を豊かにしてくれ、自分の体験を豊かに捉える力へとつながっていく。
議員は、多くの人々の人生に関わる仕事でもある。相談事を受けると、深く他人の人生に関わってく。どれだけ深く相手の人生を理解して寄り添うことができるか。そういうことが議員に問われている。文学に触れることは、他人の人生を感じ取ることにもつながっていく。
須藤さんの小説を読んですぐに次のなかむらみのるさんの『郵便屋さんの作家道』も読んだ。恥ずかしいが、この人の作品は読んだことがない。今回の文章を読んで、共産党員が職場でどう生きてきたかを少し見せていただいた。なかむらさんのように自分の人生を文章にして残せる人は少ない。多くの共産党員の方々は、短い時間では語り尽くせない多くのものを折りたたんで生きている。多くの場合、それらの人々の深い思いに触れることは少ない。多くを語らないけれど、深い思いを折りたたんで生きている人々から何かを感じ取れるような人間になりたいと思っている。そういう人間になるためには、文学の力が必要になる。