人間は外界を正しく認識できる
「自分で見たもの、自分で体験したものしか信じない」
という意見があった。
ぼくはこう答えた。
「その考え方で言えば、ものの見方が極めて狭くなる。ぼくたちは、当事者になりたくても、全ての問題に対して当事者になることは不可能だ。たとえば国会。国会で起こっていることは、自分たちで体験することはできない。多くの事実を知るためには、マスメディアによる情報が必要になる。『自分で見たもの、自分で体験したものしか信じない』ということになると、ものの見方、考え方が極めて狭くなる。さらに、人間の目で見えることは、ものすごく限られている。そもそも目に見えないことの方がはるかに多い。体験できないもの、目に見えないものを知るためには、学んで真実に迫ることしかない」
「何が真実なんてわからんやないか」
真実という言葉に引っかかる人がいると思われるので、真実を事実と置きかえて読んでいただいてもいい。事実=真実=真理だと思っているので。
「じゃあ、体験することが不可能なことについては、どうやって知るのか」
「想像はできる」
相手はそう答えた。
「自分で見たもの、自分で体験したものしか信じない」というのは、非常に強い言葉だと思う。それは、強烈な体験をして、そこから学んできた人生哲学なのかも知れない。しかし、この信念のこもった考え方に囚われると、非常に視野の狭い状況に陥ってしまう。自分の体験や感覚を基本にしながらも、学ぶことによって事実を把握できるということを大胆に認めないと、認識論的には不可知論に陥る。体験していないことに対しては、これが事実だという考え方に進まず、保留してしまい、そのことについては確かなことは分からないという傾向になってしまう。
同時に、自分で見たもの、体験したものを事実だと受け取ることによって、一定の狭い条件で発生したこと、もしくは独特の体験を絶対視してしまう見方も生まれる。「自分で見たもの、自分で体験したものしか信じない」という言葉には、強い意思のようなものを感じるが、それゆえに非常に狭い考え方に陥る危険性をも感じる。
相手はぼくに「物事を決めつけるな」と言ったが、どうも話をしていると考え方に断定的な感じがあった。彼のもつ信念は、自己の体験に対する深い確信によって、柔軟性を失う諸刃の剣のように感じた。
人間の個人的な体験には、自ずから限界がある。極端な例を書こう。
脳外科医は、足の付け根の血管からカテーテルを入れ、脳にまでそれを差し入れて血管を広げる手術を行う。このことを体験したければ、脳外科医になる必要がある。医師免許がなければ、カテーテル手術をすることはできない。これは医師免許を持っていない人間にとっては、足を踏み入れることのできない領域だろう(無免許でもしたらいいやんかというのは論外)。どんなに望んでも当事者になれない領域は、ものすごく存在する。踏み込むことのできない領域を理解するには、学ぶことによって接近する以外に方法はない。
人間は、外界を正しく認識できる。事実をありのままにとらえることができる。人間の認識は真理に到達することはできるが、それはたえず相対的である。しかし、人間が認識できる真理というものには壁がない。人間が認識する真理は相対的真理だが、その相対的真理には絶対的真理の粒が含まれている。
ぼくは、こういう見方を積極的に受け入れている。肉眼では確認できない物についても、人間は認識できる。肉眼で確認できないものには、巨視的な物質もミクロな物質もある。身近な問題で言えば、社会における人間関係も目にはなかなか見えない。人間は自分の体験を超え、他人の体験によって得た認識、他人の研究によって得られた成果を自分のものにすることができる。そこには壁がない。もちろん、自分のものにするためには、自分なりの検証や研究が必要になる。検証や探求を行う上で重要なのは実践的なアプローチだ。しかし、実践的なアプローチは、追体験とは違う。殺人者の心理は殺人者にしか分からないということになると、殺人を追体験するしかなくなる。そんなことは求められていない。他人の研究を100理解することは不可能だとしても、真理を探究するという点では壁がない。体験していなくても真理に接近するという点では限界がない。
学ぶという行為は、人類が積み重ねてきた価値ある成果を自分のものにするということでもある。私たちは、知の巨人たちの肩に乗って、さらに未来を見る。肩の上に立つことによって、巨人の頭よりもさらに高い位置に自分の頭を置くことができる。その結果、先人の巨人たちが体験できなかった社会の発展や進歩のなかで、新たに物事を考えることができる。巨人に等しい人物は、歴史上にたくさんいるけれど、その人たちが明らかにすることができなかった問題を人類は解き明かしている。先人の巨人たちの研究を学ぶことによって、巨人の研究よりも高度な地点に人類は到達する。
「自分で見たもの、自分で体験したものしか信じない」という意見には、怖れも潜んでいる。自分で見たもの、体験したもの以外は、信じられないという意味での怖れだ。これは、認識論としては、自分の殻に閉じこもる縮こまったものの見方だ。
もちろん、世の中に溢れている「成果」は、誤りに満ちている。正しいと思っている理論も、多くの誤りを含んでいる。しかし、人類は、諸説溢れている玉石混淆の「成果」の中から真理を受け継いで、前に進むことができる。他人の研究に心惹かれ、時には心酔し、夢中になって探究すればいい。誤りに陥ってもかまわない。振り回されてもかまわない。迷い込んでもかまわない。多くの研究者は、試行錯誤を繰り返している。10年も20年も自分の仮説に振り回されて成果が上がらない研究もある。社会的なブームになるような理論でも、完全に誤っているものもある。大切なのは、事実をありのままに探究する努力の中で真理を見つけ出すのだ。
その時に必要な指針は、人類は、外界をありのままに正しくとらえることができるということだ。
「世の中、何が正しいかはよく分からない」
などという見方は、真理を探究する努力を放棄することにつながる。
「人間は外界を正しく認識できる」──これこそが真理にたどり着ける羅針盤。この羅針盤があれば、荒波を乗り越えて船を進めることはできる。