詩を読んでみたくなった 2005年4月10日(日)

雑感

米          

                            天野 忠

この
雨に濡れた鉄道線路に
散らばった米を拾ってくれたまえ
これはバクダンといわれて
汽車の窓から駅近くになって放り出された米袋だ
その米袋からこぼれ出た米だ
このレールの上に レールの傍に
雨に打たれ 散らばった米を拾ってくれたまえ
そしてさっき汽車の外へ 荒々しく
曳かれていったかつぎやの女を連れてきてくれたまえ
どうして夫が戦争に引き出され 殺され
どうして貯えもなく残された子供らを育て
どうして命をつないできたかを たずねてくれたまえ
そしてその子供らは
こんな白い米を腹一杯喰ったことがあったかどうかを
たずねてくれたまえ
自分に恥じないしずかな言葉でたずねてくれたまえ
雨と泥の中でじっとひかっている
このむざんに散らばったものは
愚直で貧乏な日本の百姓が辛抱がこしらえた米だ
この美しい米を拾ってくれたまえ
何も云わず
一粒ずつ拾ってくれたまえ。


久しぶりに、詩を読んでみたくなった。
この「米」という天野忠さんの詩を読んだとき、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。
読んだのは、25歳を過ぎていたように思う。
この詩は、闇米を手に入れて列車に乗り、摘発されないために窓の外に放り投げた米が散らばっている情景を描いたものだ。米を放り投げた女の人は捕まって引っ張られていった。
だが、今の若い世代は、
私たち以上に闇米の話も
戦後の食糧難の話も
戦争があったことさえ
知らないかもしれない。
そんなことは、
関係ない。
かりに、
関係があっても、関係ないと言って
自分たちに関わってくる人を拒絶している
そういう処世術が増えた。
さだまさしさんは、そういう処世術を
「自己偏愛主義」
と書いた。
「人間にとって価値あるもので、私にとって関心のないものはない」
これは、マルクスが好きだった格言だ。
自己偏愛主義の対極にある言葉だと思う。
詩を書くためには、精神を一点に集中して、ものを見る目をとぎすます必要を感じる。
書いていた頃は、ペンをもって、ペン先とノートの白い部分をじっと見つめることが多かった。
言葉を選ぶというより、集中した意識の中に、訪れてくる表現を逃さずにとらえるような感じがあった。
詩を書かなくなって久しい。
パソコンを扱いだして、詩から遠のいた気がする。
パソコンで書く場合でも、おそらく、
キーボードの上に手を置いて、画面をみつめて、訪れてくる表現を待つだろうと思う。
ペンがキーボードになっても、それは変わらない。
私の場合文章修行の場は、詩を書くことだった。自分の胸の内にあるイメージを言葉で的確に表現することは、極めて難しい。しかし、あえてそれをおこなう。
おもしろいのは、文字に表現し、それを自分の目で眺めることによって、自分が頭の中で考えていたときには思いつかなかったような言葉の流れが生まれるということだ。
ペン先が生み出す世界は、自分の思考を超えた存在でさえあった。
しかし、そういう世界について、本人は、妥協なく繰り返し書き換えて完成したつもりでも、一たび自分の手を離れると、いつも不満が残った。
しかし、文章というものはそういうものなのかも知れない。奥が深い。
詩を書くためには、静かな時間が必要だと思う。それは夜中でも良い。
書きたい対象に肉薄する静かな時間。
書けないということは、そういう時間をもっていないことの証明なのかも知れない。

雑感

Posted by 東芝 弘明