資本主義の下での生産力
午後1時30分からプラザホープで山下よしきさんを招いての和歌山ミーティングが行われた。5人の方が各分野から発言があり、これに対し、山下さんが感想を交えて発言のテーマに触れて考え方を示した。その後は、事前に寄せられた質問に対し、山下さんが発言をするという形で集いが進められた。ユーモアのある笑いの溢れる集いとなった。
資本主義の下での生産力とは
さて。
和歌山県などのように中山間地と呼ばれる田舎は、日本資本主義の下で生産力を低下させ、衰退しつつあると、ぼくは思っている。この衰退現象は、人口減少とともに現れている。高度に発達した資本主義国の中で、極端な少子化傾向が現れ、人口減少に拍車がかかっている。もっとも根本的な要因は、労働者の賃金が、労働力商品の価値以下に切り下げられた結果、結婚して、子どもを産み育てるという最も基本的な仕組みが、大きく傷ついており、社会発展の持続可能性が失われているところに、根本問題があると思っている。同時に中山間地は、大企業中心の政治と経済の中で、戦後、日本が第一次産業を支援することを怠ってきた結果、この基本的な産業が衰退し、壊れつつあることが、衰退減少に拍車をかけているのだと思っている。
仁坂さんが知事の時代、和歌山県の活性化はカジノにかかっているとしていた。しかし、住民運動によってカジノがストップさせられた結果、和歌山県の活性化をどうするのか、という課題が、最重要な課題として浮上しつつあるのだと思っている。この課題に対して、政権与党の側には政策がないし、日本共産党の側にも、地方自治体としての政策が十分組み立っていないという状況にあると思っている。
もちろん、国政が変わらなければ、日本資本主義の衰退状況は克服できないと思っており、それは戦後自民党が中心になって行ってきた大企業優先、土木事業優先、第一次産業の軽視、アメリカ中心主義の政治の転換を不可欠にしている。戦後作り上げてきた枠組みが、時代遅れになり、戦後の高度発展モデルからの転換が必要になっている。カギを握っているのは、国民所得の向上と社会保障の充実という国民主権に関わる政治の充実を通じて、政治や経済、社会を発展させるということだろうと思っている。
今日書いておきたいのは、資本主義の下での生産力とは何なのかという点だ。社会の生産力は、資本主義の下では、資本のための生産力にならざるを得ない。根底には、国民に対する搾取の問題があり、資本の下での生産力は、「生産のための生産」、「利潤追求のための生産」という側面を強くもつ。これが日本では、大企業中心主義というかたちで現れており、あたかも生産力の発展が、地球環境をも破壊しつつあるように見える。原発推進も大企業への減税も、株価に対する低い税金も、消費税増税を法人税減税とセットで推進してきた姿も、全部資本のための生産、儲けのための生産という考え方に尽きていく。
それでも、資本主義における生産の発展には、社会を発展させる側面をもつ。資本のための生産であっても、そのもとでの生産力の発展は、社会を進歩させるという側面を合わせ持ってきた。
資本主義下での生産力に積極的な側面があるのは、商品生産の使用価値にこそ、その原点がある。使用価値の中には、人間の労働の喜びが内包されており、この側面が社会の進歩と発展を促す側面と結びついている。しかし、同時に商品生産は、利潤追求の手段としての側面、交換価値というものをもっている。これが飽くなき利潤の追求と結びついているので、生産力の発展が社会の歪みを生み出していく。今や人類の存在が地球環境を破壊してしまう危機が現実のもとのなっている。この矛盾の根底にあるのはやはり資本主義が生み出す矛盾だ。
これを如何にして、社会や国民に奉仕するための生産に転嫁するのか。ここに社会主義の課題がある。資本のための生産から社会のための生産への転換。つまり生産力を社会の手に移すことによって、自然と社会とに調和する生産の在り方への転換が図られる。
人類の発展に奉仕する生産力の発展は、労働時間を短縮し、自由に処分できる個人の自由時間を増やす。生産力は、人類の発展のために活用されるように大きく変わる。
生産力は、便利な道具の一つ。料理人が大切にする包丁のようなもの。包丁は使い方を間違えば凶器にもなるが、適切に管理して活用すれば、料理人の下で素晴らしい道具として、その役割を果たす。
人類の発展に奉仕する生産ということになれば、人間にとって必要な生産とは何かという研究が、もっと社会の全面に押し出されてくる。便利だからという観点で生産物が作られるのではなく、人間にとって、社会にとってその生産物がどのような役割を果たすのかという観点で生産物の在り方が見直され、人間の能力が発展する方向で生産物が使用されるように変化する。そのようになって初めて、生産力は自然と調和しながら発展していくように変わる。それは資本の下で生産のための生産、儲けのための生産から、生産力を自由にするということでもある。
巨大な生産力のコントロールも問われる。自然環境や人類の生存条件を破壊するような生産は退けられ、自然との調和の中での生産力の発展が命題になる。巨大な生産力は、使い方を間違えば人類を滅ぼしかねない。そのことを十分自覚して、生産が行われるようになるが、この分野は巨大な研究の分野になるだろう。そうなれば、ICTがいいということになって、デジタル教育が暴走するというようなことは起こらない。今日本で行われている「教育の分野にICTを」という根底にあるのは儲けに他ならない。
資本主義の下での飽くなき利潤の追求に伴う生産力の発展に懸念を抱く気持ちはよく分かる。しかし、本来の生産力は、資本主義の下での利潤追求のための生産力とは違う。そのことを深く理解した上で生産力の問題を考えないと、生産力否定のような傾向が生まれる。生産手段を社会の手に移して巨大な生産力をコントロールできる社会へ。資本主義から社会主義への発展という課題は、生産力に対しても新しい展望を開く道になる。
こういうように整理すれば、和歌山県内で起こっている人口減少と地域の衰退、生産力の低下の課題についても、整理して理解がで得きるようになるのではないだろうか。資本主義の発展は、日本の場合、中山間地域の極端な衰退という歪みを伴っている。しかもこの歪みは、日本社会の持続可能性を失わせるだけの深刻性をもって進んでいる。大企業中心主義が、資本の蓄積という点でも、衰退傾向を示すほど、国民に対する搾取が進んでいる。先進諸国の中で唯一、経済成長しなくなった日本になった最大の原因は、労働者への搾取の強まりが、社会の持続性を失わせるところまで行き着いていることを示している。
展望は、労働者階級による団結したたたかいにある。
労働者、団結せよ。労働者のたたかいが発展すれば、まだ日本資本主義は発展する。もちろん歪みを伴って。しかし、この歪みはたたかいによって勝ち取られた成果も伴うことは間違いない。この道はルールある経済社会へのたたかいの道でもある。



