地球温暖化問題を経済活動で歪めるな

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地球温暖化の議論を見ていると、この議論が極めて経済的で政治的な議論になっていることを感じる。科学的なアプローチを基本として、つまり、科学的な知見を土台に、政治的、経済的な規制をかけ、エネルギー政策などの転換を図っていくことが大切なのに、まず現状認識において、すでに経済的利害にもとづく、特定の見方が入り込んできて、議論が混乱している。
安部晋三氏は、サミット前日の日曜日、サンデープロジェクトに出席し、1990年を出発にして温室ガスの排出抑制をおこなうことに、極めて強い疑問を表明していた。
しかし、この態度表明は、日本もいっしょになって批准した京都議定書の確認を否定するものだった。さすがに京都議定書の取り決めを否定すべきだという言い方は、内閣総理大臣を務めた人の口からは言えなかったと見える。だから、
「1990年という過去になぜこだわるんでしょうか」──こういう言い方で誤魔化していた。しかし、日本の元総理大臣は、こんな風に、温暖化問題を誤魔化して論じて、平気な人だと言うことになる。
気候変動枠組条約の「それぞれ(の国が)共通に有しているが差異のある責任」という言葉は、非常に重要な意味をもっている。この文言をサミットも無視できなかったので、この文言を宣言の中にも入れたが、同時に、この見解を否定するかのような指摘、中国やインドを含め、共通の責任を共有することが強調された。
この論立ては、この間の国際的な議論を踏まえたものではないと思う。
先進国が、地球温暖化の問題で、エネルギー政策等の転換をおこない、その成果を発展途上の国々に生かす方法で発展途上国の経済的な発展をうながす、そうすることによって、現在の先進国がたどってきた経済発展の歴史とは違う形での、(今風に言えば)エコな経済発展が可能になる。先進国が果たすべき役割は大きい。
しかし、日本の議論を聞いていると、こういう国際的な合意や到達点の議論が、きちんと伝わってこない。驚くべきことに、日本の財界は、まさに鉄面皮で、「温室効果ガスの総量削減目標は経済統制だ」、「京都議定書は不平等条約だ」などと言っている。アナクロニズムここにあり。日本政府と財界には、やはり化石賞を与える必要がある。

環境省のデータにもとづいて作成したグラフを見ていただきたい。このグラフによると、家庭生活から排出されているCO2は20%、企業のさまざまな経済活動によって排出されているCO2は約80%を占めている。国民生活で温暖化防止を促進しても、国際的な要請にこたえることはできない。つまり産業界に対する民主的な規制なしに温暖化防止はできないということだ。「総量削減目標は経済制裁だ」という日本の財界の主張がいかに環境破壊的な言辞なのか、考える必要があるだろう。
地球温暖化の問題は、待ったなしの課題だと思われる。2050年という年が恐ろしい。ぼくの娘が、ぼくと同じ年齢に達したとき、地球は取り返しのつかない時点の立っており、娘の次の世代になると地球と人類の崩壊が現実問題として語られる、ということになっているかも知れない。
いま、国際的な到達点をごまかし、温暖化の影響は小さいとか、企業活動を規制することに反対するとか言っているのは、まさに人類に対する挑戦、「我亡き後に洪水は来たれ」の今日版だといっていい。
学者の中には、政府の立場に立つ人、企業の側に立つ人も多い。
しかし。良心があるのであれば、地球温暖化の人類的な到達点に立って責任ある発言をしてほしいと感じる。
人類はあと100年続かないかも知れない。地球温暖化をくいとめるためには、人類は滅ぶしかない。地球は、人類の死滅を選択しつつある。これこそが現実なのかも知れないが、人類は、この市場原理主義の失敗を乗り越えて、人類の存続と地球環境との共存を選択できる知恵と力をもっている、そう信じたい。
資本は、おろかな生き物なのかもしれないが、目先の経済利益に目を奪われて、科学が示す方向に足を踏み出せないのであれば、主権者である国民が、科学の示す方向を選択する政府を確立して、企業の傍若無人な立ち振る舞いに規制をかける必要がある。地球温暖化問題を経済活動で歪めるな。
それが、いま、問われている。


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Posted by 東芝 弘明