「探せば仕事はある」のか?

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お正月、スキーの宿で、テレビを見ていると派遣村のニュースが映し出されていた。
大変だなという話をしていると、宿泊客の男の人が「この日本探せば仕事はある。甘えている」と言った。
ぼくは、面識もない人だったので意見を挟まなかった。
しかし、この発言は非常に気になった。
「探せば仕事はある」
本当にそうだろうか。この発言は、現実を踏まえた発言だろうか。
ぼくは、まずこのことを考えた。
ぼくの知っている話を書く。
東京の派遣村に集まっている人々は、年末、突然の解雇で住まいと仕事を失った人々が多い。
中には、契約期間を途中で打ち切って、住宅から追い出したというケースもある。
12月26日というような日時に解雇し、会社の寮から追い出したらホームレスになるのは目に見えている。
日本共産党の志位委員長が訴えていたのは、「この年末、派遣切りを行って、寒空のもとに放り出すな」というものだった。
こういう現実のもとで、おこった事態に対し、「探せば仕事はある」というのはかみ合っていないのではないだろうか。
この寒さの中で、健康な人間でも野宿をさせられたら体力は急速に落ちる。一晩で健康が急速に悪化する人もいる。
ぼくは、早くに両親を失った人間だ。若者でホームレスになっている人々の中には、家族がない人が多い。日本の社会というのは、独身で身寄りのない人間には非常に冷たい社会になっている。
多くの会社は、身元引受人や保証人を求める。多くの場合、保証人は親になる。かつらぎ町の役場も就職するには、保証人を提出しなければならない。さまざまな事情で一人で生きている人の中には、保証人を立てることが困難なケースが多い。年末のテレビでも身内のいない30代の人が仕事を探したが、保証人がないことが障害になってるケースを紹介していた。
自己責任を言うのであれば、保証人などということを言わないで、正社員にする道を大きくひらくべきだろう。きちんとした会社ほどこういうシステムを大事にする。身内のない人間にとって、こういうことが高いハードルになる場合がある。
両親が存在しないという条件は、その人の自己責任でないケースがある。親が子育てを放棄し、子どもを手放し、施設で育つということも多い。ぼくのように高校生の途中で両親を亡くすというケースもたくさんあるだろう。
日本社会は、家族の存在を当然視し、家族が失われている人間を一人前としてみないような傾向がある。アメリカやヨーロッパのように人間をパーソンとして見ていない社会で自己責任を問うのは、2階に引き上げてはしごを取るようなものだ。
自己責任を簡単に振り回す議論に、ぼくは怒りを感じる。
年末、路上に放り出され住所がなくなれば、就職活動は極めて難しい。「探せば仕事はある」というが、住所をなくせば、それだけで就職は極めて難しくなる。
派遣会社は、こういう事情をものすごくよく知っているので、住所を失った人間に対し、足元を見て搾取を強めるケースが多い。
「仕事があるだけでもましだろ」という態度を取って、1万3000円の賃金の上前をはねて本人には最低賃金ぎりぎりしか渡さないとか、たこ部屋のような住まいをあてがって、家賃を取り、そこから抜け出せないようなシステムをつくっている。日本は、確実に貧困ビジネスが根を張り始めており、住所を失った人々は、日雇い派遣から抜け出せない泥沼のようなシステムを作りだしている。
住所を失ったら生活保護を申請することさえ難しいのをご存じだろうか。住所がないと差別を受けるということだ。
「派遣を選択したのが間違い」というのだろうか。
日本の非正規雇用は35%になろうとしている。正規職員の道をめざしてもその道が閉ざされており、非正規になり、派遣になるケースが増えている。搾取がむき出しの形で現れ、日雇い派遣→ネットカフェ→ホームレスという道をたどっているケースも見られる。
アメリカのニューヨークは、東京以上にホームレスが多く、若者のホームレスは、2007年12月のローター通信によると3800人いると伝えていた。アメリカの現在の状況は、さらに悪化しているのではないだろうか。日本はアメリカの真似をして新自由主義的な路線を強め、労働法制を改悪して派遣労働を自由化してきた。今の事態は、政治によって生み出されたものであり、「自己責任」などではない。
製造業の部門に派遣を原則自由化すれば、生産の調整弁のように労働者が活用されることは目に見えていた。だからこそ、戦後日本は、生産部門の派遣労働を禁止していたのだ。この部門で派遣を認めれば、生産調整が行われ、相対的な過剰人口が生み出され、たこ部屋が復活していくことは目に見えていた。
現実の問題として、たこ部屋のような実態はすでに生まれており、昨年の末、まさに企業による大量首切りが行われたのだ。
「探せば仕事はある」
という状況をつくるために、ホームレスになっている人々には住む場所を提供し、就職できる条件をつくる必要がある。昨年年末、この寒空に放り出した企業の責任は大きい。
「働ける能力があるなら働け」という言葉にも同様の怒りを感じる。「仕事を選ぶな」というが、自分にできる仕事に何があるのか考えると職種が狭まってくるのは、働いている人自身が感じていることではないだろうか。自分の能力を生かせる仕事を考えると「仕事を探す」「仕事を選ぶ」ということになる。
それは、まったく悪いことではないだろう。
好きになれない仕事を人間は長く続けられない。仕事には苦痛が伴うからこそ、自分にあった仕事を探すのだ。好きでなければ、しんどい仕事は続かない。そういうことを度外視して「仕事を選ぶな」ということは、軽々しくいえない。
こういうことも考えた。


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Posted by 東芝 弘明