「詩人会議」を読んでみたくなった
もう1か月が過ぎようとしている。早い。正月に大きな寒波がやってきたのに、1月の中旬頃からは温かくなって、今また寒さが強まろうとしている。もうすぐ寒い2月が始まる。
今日は何だか現代詩を読んでみたくなって、「瀬野とし」さんと「片羽登呂平」さん、2人の名前で検索を試みた。どちらもほんの少しだけヒットした。「詩人会議」を久しぶりに読んでみたくなった。
雑誌「詩人会議」は、ネットで検索しても販売されているサイトにたどり着けない。和歌山市役所の近くに和歌山書店という小さい本屋さんがあったころ、ぼくは「詩人会議」を毎月買っていた。この書店が閉店になってからは、買うことができなくなり、この雑誌から遠ざかってしまった。
議員になって、文章を書く機会は増えたのだけれど、夜中に、ノートに向かって、何度も何度も言葉を選びながら詩を書いていく作業をしなくなった。
自分の意識に中にあるイメージを言葉にする作業は、なかなか時間がかかる。詩を書こうとしても、イメージと言葉が一致することは少なかった。書き始めると頭なのかに描いていたイメージとはぴったり重なり合わない言葉が生まれてくる。ズレが埋まらないまま、言葉を重ねていくと、最初思っていたものとは違う詩が生まれてくる。
自分の中にあるイメージを静かに見つめて、それを「形」にする。「形」にするときに一番大切なのは、対象を見つめる澄んだ目だった。なかなかフォーカスが定まらない。どうしてもずれる。このずれを徹底的になくそうとする努力の中から言葉が紡ぎ出される。言葉を選ぶのは、写真のピントを合わすことと少し似ている。
詩というものは、自分との対話のようであった。意識は、脳とペンとの間にあり、ノートの上に書かれていく言葉は、自分のイメージから生み出された「形」だった。イメージとずれたまま「形」を紡ぎ出していると、書かれた言葉と意識との対話が始まった。
そういう静かな時間を持たなくなって久しい。
パソコンのキーボードと万年筆。普通に文章を書いているときには、意識しないのに、若い頃に染みついた感覚なのか、キーボードでは、詩を書くような気持ちにならない。縦書きと万年筆。これが詩を書くときには必要だった。
キーボードと横書き入力。
これで詩を書くことが、ぼくにはできるだろうか。










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