民主的な組織の在り方とは

情報化の時代、いろいろな組織の内部の問題が、表に出てきて、社会の問題としても議論されるのは、組織にとっては嫌だろうが、受け答えしなければならないのだと思っている。そういう時代の中で、組織もその在り方を変えざるを得ないと思う。
日本にある全ての組織は、組織のルールをもっているが、同時に日本国憲法が規定している個人の尊厳の尊重と基本的人権を守ることから自由ではあり得ない。もし、宗教や政党、企業、行政、福祉法人、NPOなどが、日本国憲法に反する反社会的な組織運営をしていれば、社会の力によって介入され、場合によっては警察の捜査の対象になったり、司法で争われることになったりする。
統一教会の教義が、憲法の原則、とくに個人の尊厳の尊重や基本的人権の保障と相容れないものであることが、裁判でも明らかにされ、組織そのものが反社会的組織であることが問われている。宗教問題、思想信条の自由の問題ではないということだ。
全ての組織は、内部の議論の中で起こっている問題を、すべて社会に対してオープン化しないのも当然だ。1から10まで全てオープン化しようと議論している組織があるとすれば、それは地方自治体だろう。最も進んでいる地方自治体の中には、自己の意思形成過程を積極的にオープン化しようと努力しているところはあるだろう。しかし、そのことを目指している組織でも、何もかも全部をオープン化するには、課題もあれば問題もあるに違いない。
社会に存在する圧倒的多数の組織は、内部の議論をオープン化はしていない。とくに意思が形成される生々しいプロセスをオープン化してしまうと、混乱が生じる。したがって、一定の条件が整わないと情報を表に出さない。このルールは、組織を守りつつ社会の信頼を得るために行われていることであり、当然のことだろう。
日本共産党も、組織の内部問題は表にださないという態度をとってきた。それでも最近の党の正式な方針については、党の実態がかなり分かるような形でオープン化されている。党の内部の会議である全国会議がオープン化されることも多い。
もちろん内部問題を全部オープン化することはしていない。それは、経済的、政治的利害の対立した社会の中で活動し、政治と社会の改革を求め続けている組織としては、当然のことだ。
日本社会の中には、日本共産党を辞めた人々で、社会的に発言力の強い人を中心に、日本共産党の批判をして本を出している例がある。日本共産党を攻撃すれば、生活が成り立つという仕組みがある。共産党批判の本は一定程度売れる。批判本が社会的な力をもって活用され、利用されるような仕組みが、日本社会の中に物理的に存在している。
それは、日本共産党が国民の支持を得て、勢力が伸びてくると、自分たちの活動ができにくくなる勢力があるということでもある。
野党共闘で日本共産党と立憲民主党が政権交代を目指して選挙をたたかうようなステージができたとき、徹底的に共産党を排除し、野党共闘を分断する論調が出てきたところに、政治における階級闘争がある。
こういう状況下で、党内の議論を表に出してフランクに議論を始めると、わっと群がってくる状況が起こる。階級闘争の中に全ての政党の活動があるので、そのことを考えながら内部問題を取り扱う必要がある。そうしないと政党という組織は守れない。
でもまあ、自民党はいつもこういう批判にさらされ続けながら生きているともいえる。ただし自民党の最も汚い暗部とも呼べる部分が、可視化され、オープン化されて議論されているかといえば、全くそうではない。知っているのに報道されていないことは存在している。
たとえば、アメリカと政府の間には膨大な規模の密約がある。それによって政治が動いている側面もある。しかし、こういう問題を暴露して、表に出して議論の対象にしてきたのは、野党だった。こういう問題で、メディアが先鞭をつけた例は少ない。沖縄を例外として。
日本共産党は、支部と地区委員会、都道府県委員会、中央委員会という階層的な仕組みを作り、それぞれの組織が組織方針を民主的に議論して立て、その方針の実行に責任を負う指導部と呼ばれる機関役員を選出している。日本共産党の志位和夫委員長は、党中央の幹部会委員長という限定された役職である。組織の在り方が階層的、権限は小さい。こういう成り立ちなのはいい。
自分の組織の問題は、自主的に自分たちで判断する。上級機関は、相談に乗ってくれる。質問すれば回答を寄せてくれるという形になっている。党首が政策を明らかにして、それにみんな従うという形にはなっていない。個人が起案しても、組織内で検討され、修正が加えられて方針が出てくる。
日本共産党は、党内の役職は、単なる役割分担で身分を意味しないということを規約上の原則にしている。この原則は極めて大事。党員は同じ権利と義務のもとにある。
当然のことだが、人間の組織なので、地区委員長が交代したり県委員長が交代すると、組織の強調点や取り組みの内容が変わる。党首が代わることによって、党組織にもその人の個性が生きる。
都道府県や市町村の自治体に関わっている議員の目から見ていると、独任制である自治体の長という存在が、民主主義という点では恐ろしいものだと思っている。人間の性質を歪めかねないほどの権限集中の中に首長があることを考えざるを得ない。
議員と首長は直接選挙で選ばれるが、自治体の仕組みはこの独任制の首長に数多くの権限を集中している。予算の編成権、議案の提出権、長の不信任に対する議会の解散権、否決された議案に対する再議の仕組み。ここまで権限が集中すると、人間としては万能感が生まれる。職員や議員が首長に従うような傾向が強まってくると、首長の万能感が、その人のもつ人間の性格を歪める可能性がある。自治体の長が暴走したら、住民が振り回される例は、たくさん存在している。大阪維新による都構想の2回にわたる住民投票は、その一つの例だった。
直接選挙で選ばれる責任者という形は、この選ばれた人を中心に役員を組織するという形を取ることが多い。選挙で選ばれたんだから、それなりの権限を個人に与えなければならない。これが独任制の特徴だろう。この仕組みが、民主的な仕組みなのかどうかは、よく考える必要がある。
今の自民党は、総裁を選挙で選び、この総裁が政党助成金を管理している。日本の政府の仕組みとしては、近年、内閣府と内閣官房の組織を強化し、総理が直接管轄する分野を広げ、官僚の中心的な人事まで管理するようになっている。議院内閣制なのに、首相の独裁的な傾向が強まるように組織が組み立てられてきたと言っていいだろう。ここに小選挙区制という仕組みが衆議院にできたので、金をコントロールしている総裁が、反旗をひるがえした自民党の候補者に刺客を送り込んだりして、総裁による候補者の公認という仕組みを強めてきた。
ここまで改革が進むと、議院内閣制の下での総理独裁のような形になってきている。悪法が強行されるスピードも速まっている。こういう仕組みと絡んでいる自民党の総裁選挙は、民主主義という点で多くの問題をはらんでいる。総裁選挙の仕組みだけでは、独裁的な仕組みは論じられない。自民党の今の仕組みが、何を生み出しているのかは、研究されるべきだろう。










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