人間をどう捉えるか
朝から会議がありお昼まで。午後は事務所で人と会った。古い友人の一人だ。その人からまわりにとんでもない人がいるという話を聞きながら、そういう人はいるよなあと思いつつ、どう改善するかという点で努力している人のことを思った。ぼくの知っている人の中には、穏やかにねばり強く改善を図っている人がいる。もちろん、その人の力だけで良い方向に向いたと言うことではない。状況を改善するために起こった事件に対して、真正面から向き合う点で、対応させてもらったこともあった。しかし、その後の努力は、この人の力が大きかった。
人物にフォーカスして、「けしからん」とか「これは許しがたい」という捉え方をしなければならないときはある。これが問題になるときは、互いに人間の社会的な存在をかけたたたかいになる。このような問題が起こると、相手の存在を何らかの形で否定することになるので、極めてシビアなことになる。しかし、そうせざるを得ないことは、世の中に数多く存在する。だから裁判が存在する。もしそういう状況に立ち至ったらたたかうしかない。ぼくはそういう相談にも数多く出会ってきた。
しかし、すべての問題をこういう風に捉えるのはかなり危うい。多くのケースは、互いの存在を認めながら、どう関係を改善するのかという捉え方で対処することになる。実はこちらの方がケースとしては多い。気に入らないからと言って相手を否定するのはたやすい。しかし、自分に対して強烈な人格否定をもって向かってこない場合は、「あいつはけしからん」という捉え方は間違いだろう。見ていて「気に入らないから排除してしまえ」という考え方には、人間に対する傲慢さがある。
個人の果たしている役割を、人間関係や社会的な関係という関係性の中で広く捉える見方が重要になってくる。極端に個人の資質にフォーカスして、それを軸に物事を見ることは間違いだろう。その人の性質を見極めることは大切だと思っているが、それは一つの傾向把握であって、その見方だけを取り出して、すべてを論じるというのでは、人間の捉え方としては狭いし、関係性を見ないことになってしまう。
人間は、互いの関係性のなかで生きている。相手に対して自分の向き合い方が変容するのは、相手との関係で自分の構え方が変わるからだ。変わらざるを得ないといった方がいいかもしれない。誰に対しても同じ態度で接することの方が難しいし、確固とした自分というものはない。人間は多くの関係性の中で形づくられるものであり、たえず変化の中にある。動いているということだろう。
そういうことを考えてから、日曜版の配達に行った。











ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません