心の中にあるピュアな精神
戦後80年が経った。日本共産党は、戦後合法政党として活動を開始し、橋本市、伊都郡、那賀郡でも活動を行ってきた。80年の歴史の中で、各自治体に日本共産党の議員が誕生してきた。ぼくたちの先輩にあたる議員は、戦後の第一世代及び第二世代だった。ぼくが議員になったのは野間友一さんが、東欧の「社会主義国」崩壊の中での出来事だった。ぼくたちは第三世代だったのだと思われる。
日本共産党は、ある時期から、地方自治体の制度を深く理解し、積極的な提案を通じて、さまざまな施策を実現する政党として成長してきた。紀北の地域で言えば、それは1990年以降の努力に負うところが多い。
「国民の現実の苦難の軽減」に日本共産党の立党の精神がある。議員は、多くの人の生活の苦しみに寄り添って、それらの人々の権利を守って活動してきた。この分野での信頼は厚いものがある。
ぼくが日本共産党に入ったのは18歳の3月の半ばだった。自分が入党申込用紙を書いた日を3月14日だと確認したのは、党の専従者になって、紀北地域に戻ってきたときだった。偶然、マルクスが永眠した日が3月14日だった。印象深い日に党に入ったものだ。党の専従者になって、自分の母の入党申込用紙を発見することもできた。母が亡くなったのは1977年2月14日。ぼくはまだ高校生だったし、母と政治的な話をしたこともなかった。
母が日本共産党に入党していたのを知ったのは27歳のときだった。その年の母の命日、高野山の奥の院には雪が積もっていた。ぼくは一人、白い息を吐いて、坂道を登り、母の墓の前に立った。日本共産党を選んだぼくの生き方は、小学校の教師だった母の生き方と繋がっていたことが嬉しかった。
日本共産党員は、市井に生きる普通の人々であり、政治家になって立身出世を果たすような思いなど微塵もない人が多い。地方議員も、議員として努力を惜しまない人が多く、権力とは無縁の生き方をしている。
日本共産党の組織の中にも、役職に就いた党員を、特別視する傾向がなかったとは思わない。しかし、そのような傾向は、時代とともになくなったと思う。とくに党中央委員会が、党内の役職は単なる役割分担であって、身分を表さないということを宣言してから、党員同士の関係は、実にフラットになった。共産党員が、国会議員のことを「先生」と呼ぶのを忌み嫌うのは、フラットな人間関係を壊すからだ。一般的な呼び名は「さん」付けだろう。志位さん、田村さん、宮本さん、山添さんというように。最近田村さんは、「たむとも」という愛称で呼ばれている。
ぼくの親しい人の中には、紀北地区委員会地区委員長だった人がいる。この人は、その後県委員会の常任委員になったが、退職後は地域の支部長として活動している。ぼくの相方だった宮井健次議員も今は地域の支部長になっている。ぼくも、最終的には一党員として人生を終わるのがいいと思っている。
市井に生きる人が、自分のかけがえのない人生を日本共産党に入って生きる。数多くの選択肢の中で日本共産党員としての道を選んだ人は、個人の立身出世とは何の関係もないところで、社会は民主的に進歩することを信じ、平和を願い、最近では日本国憲法の大切さを人生観としても貫いて生きている。豊かな個性をもった個人が党を形成している。
共産党員は、みんな、心の中にピュアなものをもっていると思う。自分の中で大事な生き方のコアな部分にある個人の尊厳の尊重と平和。これに対する誠実で揺るがない思い。これを生き方の中に貫いているのは美しいと思う。このピュアな精神は、他人への思いやり、社会へのまなざしにも繋がっている。
最近、ぼくは議員歴35年という表彰を受けた。記念品を開くと中から銀杯が出てきた。9期の間落選することなく議員を続けて来られたのは、有権者がぼくを選んでくれたからに他ならない。感謝は有権者の思いに捧げたい。
心の底にピュアな精神をすえて、純粋に生きたい。
社会進歩の歴史を信じるというのは宗教ではない。人類の歴史は、紆余曲折を経ながら自由と民主主義を充実させる方向に発展しているという科学的な見通しによるものだ。この見通しがピュアな精神の源泉になっている。
紀北の地域に日本共産党あり。この党が民主的な発展に貢献した足跡は大きい。歴史は市井に生きる民衆がつくる。今までも、そしてこれからも。








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