川原寺と薬師寺

佐野廃寺のルーツをたどる意味が込められている、佐野住民会館の「歩け歩け」の1日バスツアーに参加した。朝8時20分過ぎに会館前を出発したバスは、まず明日香村の川原寺に到着した。この川原寺は、佐野廃寺と同じ頃に建てられたお寺であり、建物の作りも佐野廃寺と似ているものだ。
川原寺は、現在一番奥に江戸時代に建てられたお寺がある。建立当時のお寺の姿は、遺構という形で今日に伝わっているものだ。538年の仏教公伝から130年ほどたった7世紀の後半に建てられたこれらのお寺は、当時仏教を積極的に受け入れるようになった朝廷が、官寺を中心に積極的に普及した時期に当たる。川原寺は、官寺である四大寺(大官・薬師・飛鳥・川原)の一つ。この寺は、南大門、中門、中金堂、講堂がお寺の真ん中に一直線に配置され、シンメトリーな造りになっている。中門から左右に回廊が伸び、この回廊がお寺の境内を囲んでいる。さらにほぼ中央に位置する中金堂からさらに左右に回廊が伸びて三面僧坊と呼ばれる宿舎につながっている。中門から中金堂までが横長の長方形になっており、中金堂から奥が一回り大きい縦長の長方形の形をしている。中門から中金堂の中には東に一塔が置かれ、この塔に並行して西金堂が配置されている。このような伽藍配置は、川原式と呼ばれている。
日本最古の官寺は、大阪の四天王寺だとされており、聖徳太子が建立したものだといわれている。この寺は、『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたらしい。
お寺の歴史には興味深いものがある。インド→中国→朝鮮から伝わった輸入文化であった仏教のお寺を建立するためには、多くの技術者を必要としたが、これらの人々は渡来人として日本にやって来たと考えられる。四天王寺にしても、670年代に建てられた各お寺にしても、異国の文明の文化を色濃く反映したものになっている。それは仏像の姿、形にも色濃く反映している。

仏教公伝から160年が経過した698年に建立された薬師寺にもそれが現れている。この薬師寺の歴史は面白い。お寺の建設には18年を要したと言われている。この薬師寺は、本薬師寺と呼ばれ、その遺構は橿原市にある。藤原京にあったこのお寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため祈願して建立したものだ。この薬師寺が本薬師寺と呼ばれているのは、平城遷都後奈良市西の京にある薬師寺に移築されたからだ。しかし、移築か新築かについては論争がある。この論争は、薬師寺が白鳳に属するのか天平に属するのかという議論を生み出している。この議論は、仏像についてさらに伯仲したものになっている。
この薬師寺には月光菩薩、薬師如来、日光菩薩がある。今日はこの3つの仏像を見ることができた。この仏像は、飛鳥時代の白鳳に属するものなのか、それとも奈良時代である天平に属するものなのか。つまり白鳳美術の成熟期の仏像なのか、それとも天平美術の開始なのかということだ。本薬師寺と薬師寺は併存し、奈良時代に入ってから薬師寺が建立され、仏像も作られたとなれば、仏像は天平美術の初期のものになる。移築され仏像も移設されたとなれば、仏像が作られたのは白鳳美術の成熟期になる。
このような論争が尽きないで続いているのは、この仏像の姿が日本的な美しさを備えているからにほかならない。100年単位で歴史をみると、大きな変化がみられる。外国から輸入されてきた仏教は、国際色豊かなものだったが、長い年月の中で次第に日本的なものに変化していった。仏像の姿形も次第に変化してきたので、薬師寺の仏像がどの時期のものなのかということが、重要な関心事になるのだ。
個人的な感想で言えば、薬師寺はぼくが好きだった韓国ドラマ、チュモンで見ていた王宮に感じがよく似ていた。朝鮮の文化を感じた。この印象が単なる印象なのかどうかは、さらに追求しないと判明しないだろう。しかし、豪華絢爛で金ぴかの仏像だった派手な感じは、薬師寺にかなり残されている。色の抜けてしまった後の時代のお寺とは随分違う印象を受ける。
大和王権(大和朝廷)は、一つの勢力だったと思われる。日本に国が成立した時期は、古墳時代のいつ頃なのかは学習の対象だが、地域限定の小さな国がたくさんあった時代から次第に大きな国へと変化していったという想像は、あたっていると思う。飛鳥時代の大化の改新、その後の律令制度の確立の時代であっても、ぼくは、統一国家ができていたという考え方に疑問がある。古代天皇制による国ができて、一部の地方にこの朝廷に従わない部族があったという見方は、おそらく正確ではないだろう。
外国の場合は、比較的小さな国が複数、もしくは多く存在したことを認めているのに、日本の歴史になると「万世一系の天皇、これを統治す」という変な考え方になる。九州の勢力、出雲の勢力がどのような社会体制だったのかをもっと正当に評価する、関東や東北の勢力についても、北海道についても正確に評価するなどの態度が大事だと思われる。こういう問題意識が、事実にもとづいて把握され直していけば、日本歴史のとらえ直しにつながる。
また、朝廷の支配下にあったり影響下にあった地域であっても、それぞれの氏族と朝廷の関係をもっと深く把握しないといけないのではないだろうか、とも考えている。中央集権的な統一国家だったというのは大いなる疑問だ。もっと重層的な関係があったのではないだろうか。深い影響を与えていたが支配には至っていないという地域が数多く存在したのではないか、というのが問題意識だ。
興味深いのは律令制度だろう。この制度がどのような影響を地域に与えていたのかというのは、大和朝廷の支配力がどのような形で各地に影響を与えていたのかを図るひとつのバロメーターになる。法律の強制力が及ぶ範囲が、国家としての支配力になる。各地域の氏族に深い影響を与えていなかったとすれば、大和朝廷の影響力と支配力は明確に分けなければならない。
こういう問題に興味が出てきたので、いくつか本を買うことにした。選挙が終われば、集中的に学習してみたい。










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