十五社の樟樹
笠田小学校の学報「くすのき」にPTA会長として文章を書いた。題は「佐藤春夫さんが作った校歌」とした。
この文章については、校長先生に許可を得てこのBlogにも載せたいと思っている。
ときを同じくして、和歌山県地域・自治体問題研究所から、樟樹について原稿を書いてほしいという依頼があった。この文章は「和歌山住民と自治」という月刊紙に載せていただいた。
今日は、こちらの文章をここに載せておきたい。
笠田小学校のすぐ北に十五社(じごせ)の樟樹がある。樹齢四〇〇年とも六〇〇年とも言われている。幹の太さは一三m四〇㎝だという。環境庁(当時)の平成元年の巨樹・巨木林調査にもとづいて作成されたリストによると、近畿最大、全国四三位、樟樹の中では全国二二位となっている。
この樟樹を訪ねて来る人も多い。南に小学校があるので、木の全景を写真におさめることは難しいが、樟樹の前に立つと感慨のようなものが溢れてくる。
樟樹は、妙楽寺というお寺の境内に植えられたものだった。お寺には15体の神である十五社明神が祀られており、お寺に神が祀られていた関係は、明治初期の廃仏毀釈、神仏分離令まで続いた。
十五社の樟樹という名称には、地域の神仏習合の歴史が刻まれている。高野山や丹生都比売神社が世界遺産になって以降、神仏習合に注目が集まり神社史など研究もさかんになっている。かつらぎ町の中には神仏習合をしめすお寺と神社の存在はたくさんあり、このお寺もその一つだった。樟樹は、お寺の守り神のような存在だったのかも知れない。
明治八年(一八七五年)、このお寺に明倫校という学校が作られ、その後二度の統合を重ね、明治二十一年(一八八八年)に笠田尋常高等小学校となり、笠田国民学校をへて戦後の昭和二十一年(一九四六年)、現在の笠田小学校へと発展してきた。お寺に作られた学校の歴史は一三四年になるが、樟樹は遙か前からそこにあった。明治の近代化、あの忌まわしい戦争、戦後の民主化、そして現在の教育の困難さ。変わっていく時代と変わらない樟樹、対比は鮮やかだった。
昭和二十六年(一九五一年)。まだ戦争の傷跡が消えていなかった三月一日、校長先生のもとに一通の手紙が届いた。中には、新宮市出身の詩人であり作家であった佐藤春夫さんの作った校歌が入っていた。校長先生が東京の佐藤さんに会いに行き、作詞を依頼しなかったら生まれなかった歌だった。
「笠田の里よわがまちよ/葛城山の山すそに/十五社の森をとりめぐり/人むつまじく栄えゆく
大樹の樟よわが庭よ/千年の命貴しと/十五社の森の下かげは/至誠(まごころ)の児童(こら)集うなり」
地域と樟、子どもたちと樟のことを歌った歌は、親子二代にわたって子どもたちに伝えられている。
一三四年の歴史の中でその姿と形を変えてきた小学校は、今また統廃合と全面改築の流れの中にある。変わらないこの校歌と樟樹を残して。
守るべき教育の不易とは何か──樟樹の前に立つとこんな思いも浮かんでくる。
(2019年6月7日、樟を樟樹に訂正、妙楽寺に十五社明神が祀られており、神社があったのではないので記述を改めた。)












ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません