コロナ対策後の政治経済を考える

新型コロナウイルスに対する対応の仕方は、日本の今までの政治や経済のあり方を根本的に問うものになっている。2000年、介護保険から始まった日本の本格的な新自由主義に基づく政治と経済の路線は、20年の中でその根本的な転換が問われている。
自民党と公明党による連立政権は、国会の中で盤石の体制となり、悪法を次から次へと成立させる力を発揮してきた。小泉政権による構造改革が国民を徹底的に痛みつけたことによって、民主党政権が誕生したが、この政権は、アメリカと財界の圧力によって打ち砕かれた。民主党政権は、自ら掲げた「生活第一」という公約をほとんど全部投げ捨てる中で自民党とほとんど違わない政策を掲げるに至って瓦解した。
この後生まれた第2次安倍政権は、小泉構造改革を事実上引き継ぎ、極めてご都合主義的なアベノミクスを推進した。もともと論理的一貫性のなかったアベノミクスは、赤字国債の発行による公共投資を拡大しつつ、同時に新自由主義的な政策も推進するというものだった。小さな政府を推進するのが新自由主義の特徴だが、アベノミクスは、小さな政府を推進しながら同時に従来型の公共投資も抑制しないというものだった。こういうご都合主義的なアベノミクスの3本の矢は、途中から推進されなくなって、どんな路線だったのかも分からないような形になった。
ちょっと、身近なところから、脇道に逸れながら論を展開してみよう。
それでも新自由主義的な政治経済路線は、この間、強く推進されてきた。災害において自助、共助、公助が強調されて語られるようになった。ちょっと考えればわかるが、風水害は自助からは始まらない。まず気象状況をいち早くみている自治体が、公的な体制を組んで風水害に備えるところから始まる。避難所の開設も公共機関である自治体が積極的に動いて準備される。風水害は、公助、共助、自助という順番によって形成されるのが当たり前なのに、その分野でも自助、共助、公助という順番で語られる。「そうではないですよ」と言っても、このことを深く考えるということにはなかなかならない。
政府のプロパガンダを鵜呑みにする風潮が、議員の中にも自治体の中にも存在する。この傾向の中にマスコミもあるだろう。
自助、共助、公助の順番で語られる災害対策は、地震の場合には当てはまる。地震は予知できないので、まず全ての人が地震の起こった地域で災害にあう。そのとき、まずは自分の身を守るところから始まるのは当たり前のことだ。この特徴があるからといって、自助、共助、公助が災害対策の基本であるということではない。
自助も共助も当然必要だが、公的責任をしっかり果たしながら、どうやって住民と行政が協力して災害対策を構築するのか。この考え方が重要であって、自助、共助、公助という順番を強調すべきではないと思っている。高齢化が進んだ地域でいえば、当然のこととして機能していた自助や共助の力が落ちてしまい、自助から始まるとは言い難い状況になっている。この現実から出発しないと災害対策を立てることはできない。
和歌山県が危機管理室をつくった初期のころ、同級生の県職員だったE君は、「地域の力をよく把握して、その地域に何ができるのか、何ができないのかをよく見極める必要がある。昼間人口と夜間の人口が大きく違う地域でも、昼間の災害と夜の災害では地域力に違いが出てくる。こういう状況をよく踏まえて、支援計画を立てる必要がある」と語っていた。こういう視点が極めて大事であって、自助、共助、公助などという順番で物事を考えるのは、かなり機械的な発想だと言わなければならない。
自助、共助、公助の強調の中には、自治体に頼るな、自分でなんとかしろという意図が透けて見える。この勧化方の根底には新自由主義の自己責任論があるのは間違いない。
新自由主義的な考え方が、具体的にどう貫かれているのかを見極めるためには、新自由主義とは何か、自治体でどういうことを実現させようとしているのかを点検し、考え抜く作業が必要になっている。同じことが選択と集中という言葉にも潜んでいる。
国が少子化対策の計画を立てようといい、全国で子ども子育て支援計画が作られてきた。僕がこの審議会のメンバーになったとき、かつらぎ町で起こっているのは、高齢化と過疎化、少子化の同時進行ではないかと発言したことがある。この論点は、かなりの間、その審議会で議論になったが、最終段階になると担当職員が、「議員さん、今回の計画は少子化対策なので過疎化の問題はこの計画からは外したいと思うんですが、いかがですか」と言ってきたことがある。
東京にある国の行政機関が少子化対策の計画を立てなさいと言ったら、全国どこもかしこも少子化対策の計画を立てる。その中には過疎化の問題が入らない、国の立てよと言っているものは少子化対策なので過疎化問題を入れるのはおかしいということだった。
猫も杓子も、かつらぎ町でも少子高齢化が進んできてという発言が当たり前のように語られたが、僕は、こういう発言に対して、かつらぎ町は、少子高齢化と過疎化が同時に進行しているのではないかと町長にも確認し続けてきた。自分の頭でものを考えることをしないまま、国の認識を疑わないで自治体の計画を立てても現実には合わない。
横道はここまで。
新自由主義から転換して、新型コロナ以後の世界をどうつくるのか。それは今までの日本の進んできた方向からの転換を求めている。税金の集め方を消費税に頼ってきた日本は、低所得者に多くの負担を求め、大企業や大資産家、富裕層の減税を進めてきた。このような税の集め方が、本当に豊かな日本をつくる力になってきたのかどうか。医療の供給体制を縮小し、医療から公的負担を後退させて、同時に国民の負担を増やしてきたが、これで本当によかったのかどうか。
「世界で一番企業が活動しやすい国をつくる」と安倍さんはいい、大企業の経済活動を支援し、大企業だけが使える優遇税制の仕組みをつくってきたが、これで本当に日本が豊かになったのかどうか。企業の要求にもとづいて正規雇用を縮小し、派遣労働や非正規雇用を増やしてきたが、これで本当に日本は豊かな国になったのか。
新型コロナウイルスによって日本の経済が極めて弱く、医療や社会保障が脆弱になっていることが国民の目に明らかになってきた。日本は、アメリカを一つのモデルにして、公的な医療体制を縮小させて、自己負担を徹底的に増やす方向を志向し、保険適用の医療の範囲まで縮小しようとし、保険外負担を大きい区増やしてきた。しかし、現行の医療負担でコロナ危機を乗り越えることができないので、コロナ対策による医療負担は、基本的に自己負担なしでの入院を実現した。日本の医療改革がさらに進んで、公的保険の対象まで狭め、さらに負担を国民に押し付ける制度が実現し、しかもそのままコロナ対策を行っていたら、感染の拡大も感染による死亡ももっと増えていただろう。
アメリカでは、警官による黒人の殺害事件から大きな運動が起こり、人種差別の歴史に対して根本的な是正が求められるようになりつつある。この運動はヨーロッパにもオーストラリアにも広がり、植民地主義とはいったい何であったのかということにつながって、コロンブスの像が倒されたりして、歴史の見直しが始まっている。
コロナ対策以後、日本はどういう方向に進むべきなのか。
進むべき方向は、日本国憲法を生かし、生存権を守り社会保障を充実する道ではないだろうか。大企業の利益を最優先し、海外で利益を上げる経済を推進するのではなく、中小零細企業を大切にし、日本国内の内需を拡大する方向で日本経済を立て直す、つまり、国民一人一人の生活を豊かにしながら経済と地域の再建を目指す方向に転換すべきではないだろうか。
少子高齢化と過疎化が田舎の当たり前の状況になるのではなく、田舎が豊かになる方向での政治的経済的転換は可能だという展望を、政治的経済的転換の中で実現すべきなのだと思う。国民生活の豊かさ=国の豊かさにつながる改革は、平和国家と民主主義国家の中で実現するのではないだろうか。











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