waoさんの小説が届いた
ブログを書いていると、一度も会ったことのない人と友だちになることがある。書いている記事が、他人の心の琴線に触れたときに交流が始まる。深く広い交流が始まると嬉しくなる。交流が始まった人の中には文芸評論家や経済学者の方もいる。日本共産党の議員で、ぼくの書いていることに興味を示してくれる人もあって、それらの人とも交流がある。
交流の中には、ブログにいつも書き込んでくれるwaoさんという人がいる。ぼくのブログを気に入ってくれて、もうかれこれ15年ほど付き合いがある。さつま揚げの詰め合わせを2回も送ってくれたり筒井康隆さんの本を送ってくれたりしてくれた人だ。最近になってこの人は、ぼくと同い年でしかも漢字は違うが同じ名前であることが判明してきた。
waoさんは、九州の人で小説を書いて応募したというので、応募作品を送ってもらうことにした。その件の小説が月曜日の夜、自宅に帰るとポストに入っていた。
明日、水曜日の朝、この小説を読むことにする。本にまだなっていない小説を読むのは初めてだ。waoさんには感想を書く約束をしている。








ディスカッション
コメント一覧
うっししし。
楽しみだなあ!届いたんですね。日本の郵便局は優秀だなあ。
小説「赤マント」では省略しましたが、昭和40年代の奄美は本土復帰してから振興開拓でどんどん開発が進み、本土より都会的な島になり、古い奄美と開発された奄美が混在しており、1種独特な雰囲気をしておりました。そんな中で戦争という古傷を背負った「赤マント」は奄美で存在していた訳です。俺達はそんな「赤マント」に畏れみたいな気持ちを抱いておりました。何故、赤マントという人物が存在出来たのか? 当時は乞食というものとか、カタワとか、ハクチなどといった者が当然の如く普通にその辺にいて、それを大人は許容する文化というものがあった様な気がするのです。戦争の犠牲者とか、人生の落伍者とかを人々は許容していたのです。日本画家の田中一村などもその様な島で孤独に海辺の粗末な掘っ建て小屋で絵を描いていたのですが、子供達は石を投げたり、乞食とか言って馬鹿にしておりました。俺は田中一村を直接的には知らないのですが、鹿児島市の黎明館という文化会館で「田中一村展」というものをやっており、観に行った事があります。そして当時の奄美の独特な雰囲気を想い出しましてやるせない気持ちになった事があります。
奄美のあの当時の独特な雰囲気を俺は、小説「赤マント」で表現しきれたか、というと、失敗したのではないかと思っております。文學界の規制枚数が400字詰めで100枚という制限の中で扱うボリュームであったかと言うと、無理があるのではないか。短編で書けるか、というと難しい。長編であればもう少しマシな小説が書けたのではないかと思っております。トーマス・マンは文章は短ければ短い程難しいと言っております。全くその通りです。文學界は短編小説を書く所であって、俺の場合、テーマがでかすぎて出す場所を間違っておるのかもしれません。次回は本当に短編で勝負するものを書こうと思っております。短編は難しいのですが。
ここに書かれた奄美の状況は興味深いですね。小説を通じて何を描きたいのかを掘り下げる点で勉強になります。ぼくが書きかけている小説では、waoさんのように人物が描き分けられていないです。
人にはリアルな形象と言いながら、自分が書くと単調になっているので、創作というのは難しいですね。
原稿用紙100枚というのは、意外に短いですね。この短い中にリアルに描くためにどうするのか、考えさせられました。読ませていただき、ありがとうございました 。
とんでもない事です。
こちらこそ下らん小説を読んで頂いて有難う御座います。日曜礼拝が済んで昼飯を喰って此れを書いております。ハレルヤコーラスの練習があり、帰宅が遅くなりました。
100枚は短いです。此の限られた枚数の中で、勝負するのは至難の業です。三島由紀夫の処女作「煙草」も短編の最高傑作ですが、文章の濃縮度に圧倒されます。矢張り天才は違いますね。俺は東芝さん程の才能があれば職業作家は夢ではないと思います。ブログを読んでいてそう思います。キラッと光る文章を沢山みてきました。我々にはもう時間がありません。何とか此の世に生きた証を永遠に残したいな、というのがあります。何故、我々は存在したのか、生きる意味とは何だったのか。そもそも意味なんてあるのか。世の中に問うてみたいですね。1960年代とはなんだったのか。1960年代というのは不思議な世代だったと俺には思えるのです。