議員の質疑、「意見」と「見解」との違い

雑感

9条平和まつりの印刷をお願いしたので、今回は決算審査の準備が時間を取ってできた。今日は朝から、さまざまな角度で質疑を行った。今回は、こちらの質疑の考え方をほとんど示さないで、質問の積み重ねで本質に迫る方法を探究している。この方法は、「自己の意見を述べてはならない、質疑は疑義だけ質す」という一部の自治体で行われている制限を自分に課して行っているものだ。しかし、この方法が、いかに分かりにくいかを示すものにもなっている。
質疑は、本来、質疑の趣旨を述べながら行う方がいい。質疑する議員の意図を把握しながら答弁する方が、答弁する方はしやすい。

質疑の本当の姿というものはどこにあるのだろうか。これを重ねて書いておきたい。
かつらぎ町の会議規則の第54条は遅疑のように規定している(この規定は標準会議規則でも同じ)。
第54条 発言は、すべて簡明にするものとし、議題外にわたり又はその範囲を超えてはならない。
2 議長は、発言が前項の規定に反すると認めるときは注意し、なお従わない場合は、発言を禁止することができる。
3 議員は、質疑に当たっては、自己の意見を述べることができない。

この54条の第3項、「議員は、質疑に当たっては、自己の意見を述べることができない」という規定の意味は何だろう。問題を紐解く上でのカギは「意見とは何か」というところにある。

この件について、議員必携は次のように書いている。
「質疑は、議題になっている事件に対して行われるものであるから、現に議題になっている事件に対して疑問点を質すものでなければならない。また、自己の意見を述べることができない(標規五四Ⅲ)。この場合の意見とは、討論の段階で述べるような賛成、反対の意見であって、自己の見解を述べないと質疑の意味をなさないようなものについてまで禁止しているものではない。」(第11次改訂版 議員必携)
ここを間違っている自治体がある。議員が自分の見解を交えて、質疑を行っても問題がないのに、「意見」(賛否に関わる意見)と「見解」を混同して、見解さえ述べてはならないという議会がある。見解を述べることを禁止したら、本来言うような質疑はできないし、住民にとっても分かりにくくなる。

ただ、今回は、簡潔な質疑にするために、できるだけ自己の見解を示すことなく質疑する努力を行っている。
今日は休憩のときに「東芝さんの質疑の仕方が悪い」という意見が出た。質疑の仕方の悪さの指摘は、自己の見解を述べるかどうかに関わっている。この意見は、質疑の際には自己の見解をある程度述べるべきだということだろう。

いずれにしても、戦後、つくられた標準会議規則の中には、議員の手をしばっているものがかなりある。本会議質疑は3回までという規制は、議員ができるだけ問題点を追及できないようにする「制限」に他ならない。
「質疑は3回までという制限を変えるなんてとんでもない」
真顔で真剣に言う当局の職員もいる。議員の中にも「この制限でいい」という人もいる。このような硬直した考え方を変更して、柔軟にルールを決め直すべきだと思う。議員の質問権を回数で制限するのは、議会制民主主義の発展にとって、大きな課題になっている。ぼくはそう認識している。

決算委員会が終わったので、事務所に行って、あとわずか数十分という会議に出た。そのあと、9条平和まつりの印刷がまだ続いていたので、ぼくも作業に参加した。決算審査の疲れがあったので、あんまりものが考えられない。澱のような疲れが目の裏に張り付いている。案の定、自宅で夕ご飯を食べたら、午後11頃まで眠ってしまった。

雑感

Posted by 東芝 弘明