哲学する心とは何か?
「豊かに生きたいと思うのなら、哲学する心を持ちなさい」
こんな台詞を吐いてみたい。
もちろん、こんな気の利いた言葉は言ったことがない。だが、本気でそう思っている。
「哲学を胸の内に秘めるためには、永遠というものを大切にすることだ」
こういう台詞も言ってみたい。
永遠は彼方にはない。永遠は、1㎝の間にもあれば、1秒の間にもある。そう、永遠はどんな場所にも存在する。宇宙の始まりは1秒よりもはるかに短い時間の中で変化したのだし、小さな範囲の中にも無限の出会いがある。このことを知っている人は、哲学の心を持つことができると思っている。
物事を俯瞰する中にも永遠はあるし、小さな世界の中にも永遠はある。それぞれの世界に分け入って、事実を探究することが哲学に繋がる。ぼくは本気でそう思っている。いろいろなことを調べていくと、知らないことに大量に出会う。自分にとって未知の世界に分け入りながら、具体的に物を考えると、永遠は向こうからやって来る。
作家は、小説を読みながら、作者がどのようにして、この場面の会話を表現しようとしているのかを知る。一人語りで物語は豊かにならない。その人に独白させたいのであれば、独白に付き合ってくれる人が必要になる。今日読んだ浅田次郎さんの短編の中に現れた若者は、昔、自分が愛した恋人に瓜二つだった。作品を描き始めると、作家が、どうしてこういう人物を登場させたのかが見えてくる。この人物が表れなかったら、物語を立体的に描けない。一人語りにしないためには、何らかの登場人物が必要になる。それをどう用意するのか。ここに作家の苦労がある。作品を描くと、こういうことが見えてくる。
ただ単に小説を読んでいるだけでは気が付かない。小説家は、映画を見ながら俳優の仕草を観察して、それを文章に起こしたりしている。俳優が演じていることを文章に戻す作業が、自分の作品を豊かにする。たった1行を表現するために、一生懸命事実関係を調べたりする。そういう努力がないと、作品はリアリティを持たない。
作家にとっての「永遠」は、そういうところに存在する。文才があるから作品が描けるのではない。才能で書けるほど現実は貧困ではない。いつも現実の方が遥かに豊かであり、現実を知ることが「永遠」と豊かさに繋がる。
NHKの連続テレビ小説が、全くのオリジナルシナリオよりも、史実を踏まえた具体的なモデルのある作品の方が、面白く豊かになるのは、現実の複雑さと豊かさによる。ぼくはそう思っている。
作品にはテーマがある。ただし、現実はそのテーマに沿って動くことにはなっていない。偶然と複雑性の中に現実がある。現実にはテーマ性なんてない。ただ、偶然と見える動きの中にも経済法則は貫徹している。ここが面白い。
その一方で、現実を作品化するときには、テーマに沿って描くことが求められる。テーマの破綻した作品は見るに耐えない。作品を描くと、切り捨てざるを得ない現実が、多々出てくる。
同じ歴史上の人物を描き、かなり史実に忠実にその人の生き方を追いかけても、違う作品が出来上がり、その人物の彫りの深さや生き方の違いが生じてくるのは、現実の豊かさに原因がある。一つのテーマを持った作品で、現実の全てを描けるということはない。そこが面白い面でもある。
ここに書いたことは「永遠」の説明になっているだろうか。歴史的事実を描く作品には、無限の可能性がある。この可能性は永遠ということでもある。事実を探究する人は、「永遠」の奥の深さをのぞき見ることのできる可能性をもった人であり、哲学することのできる心をもてる人だと思う。
人生を豊かに生きたいのであれば、哲学する心が必要になる。ここ心がなければ永遠はつかめない。
この意味が伝わるだろうか。
哲学を胸の内に秘めるためには、永遠というものを大切にすることだ。つまり、形而上学、自然学を越える、超自然学でしょうか。豊かに生きたいと思うなら、哲学する心を持ちなさい。カントによれば、超感性的なものの認識の必要性は、もともと人間の理性の自然的素質に基づく。自然的素質としての形而上学は否認しがたい。この形而上学的な素質は、理論的領域においてではなく、実践的領域において展開される。つまり、現実を知ることが永遠と豊かさにつながる。ということなのでしょうか。
この日の書き方は、なかなか真意のくみ取れないものになってしまいました。次の日に書いたことが、言いたかったことです。