般若心経から学ぶこと
地域の祇園祭が開かれた。夜中に雨が降ったので掃除がなくなって、10時30分から祭礼が行われた。祇園さんと呼ばれる祭礼は、神様を拝み仏様を拝むという形で行われる。般若心経をどちらも唱えるが、最初唱和する神様のときには、仏説という頭の言葉を抜いて読み上げる。仏様のときには抜いた仏説を入れる。
般若心経は、ネットで検索すると「いい葬儀」というサイトが紹介され、そこに次のような説明があった。
「西遊記に出てくる三蔵法師として有名な玄奘(げんじょう、げんぞう)がインドから中国に持ち帰った「大般若経」が原書とされています。三蔵法師はサンスクリット語で書かれていた大般若心経を漢語に訳し、600巻ほどにしたためました。そして、その600巻のエッセンスをわずか300字弱で表現しているのが般若心経です。般若心経には仏教の真髄となる教えが凝縮しています。」
何も知らないので般若心経=真言宗だと思っていたが、実は日本では、天台宗・真言宗・臨済宗・曹洞宗・浄土宗がこれを用いてるらしい。というのが分かった。
このサイトには、「日常語で意訳しました。観音様と弟子のシャーリプトラの会話劇です。玄奘訳で欠けている部分の大筋などを「大本(完全版)」やサンスクリット原本で補いました(青字部分)。また、分かりやすくするため説明を付加しています(緑字部分)。」という記事があり、以下のような般若心経の簡単な意訳が紹介されている。
般若心経の簡単な意訳
シャーリプトラ「悟りを得て、この世の苦しみから逃れるにはどうすれば良いでしょうか」
観音さま「この世のあらゆるものには実態がない。つまり本来は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心といったものも存在しないのだ。だから物事に執着したり、ひとつの価値観に捉われてしまう必要はないのだよ」
般若心経の和訳
私はこのように聞いています。お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。
その時、観音さま(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行をされて次のように見極められました。
「人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだ」と。そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。
お釈迦さまの弟子で長老のシャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。
「深淵な“智慧の完成”の修行をしようと思えば、どのように学べばよいのでしょうか?」それに答えて、観音様はシャーリプトラに次のように説かれました。
「シャーリプトラよ、体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。
体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。
これは体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです(つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません)。
シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。汚れているとか、清らかであるということもありません。迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。
このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。目に映る世界から、心の世界まですべてありません(つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません)。
迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません(つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません)。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません(つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません)。知ることも、修行の成果を得ることもありません。また、得ないこともありません。
このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。心に妨げがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。
過去・現在・未来のすべての仏様も、この“智慧の完成”によって、この上なく完全に目覚められたのです。
ですから知らないといけません。“智慧の完成”は大いなる真言、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除き(取り除く真言であり)、偽りがないので確実に効果があります。さあ、“智慧の完成”の真言はこうです。
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ)
シャーリプトラよ、深淵な、“智慧の完成”の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。」
この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。
以上で“智慧の完成”の神髄の教えを終わります。事物はすべて変化の中にある。これが般若心経を貫くもののようだ。個別の人間とは何なのかという観点から書かれたものではなく、体をもった人間もまた変化の中にあるのだから、大きな視野で見たら全ては実体のないもの。実体だと思っていても、それもまた変化の中では、生成と発展、消滅の過程にあるということなんだろう。
般若心経がどのような形で生成してきたのかは、よく知らないが、この考え方を貫いているのは弁証法なのだと思う。唯物論と般若心経は親和性があり、ものの見方、考え方というのは、一切の執着から離れたところから見れば、それも変化と発展の中にあるという見方なのではないだろうか。
「このような境地ですから、菩薩様達は“智慧の完成”によって、心に妨げがありません。心に妨げがないので恐れもありません。誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。」
ぼくたちは、「これが正しい」と思いがちだが、それも変化の中にある。「正しい」と思い込んでいても、社会の変化の中で「それは間違っていた」ということになる。変化を軸に考えると、ものの見方考え方というものをたえず相対化できる。自分は「正しい」と思っているが、それはいつも「正しいのではないか」という問いを内包しているものであり、やがて「その正しさ」も変化して行く。
人類が積み重ねてきた人権思想も、全ての人間が対等平等という社会の発展の中で、ようやく機能する。それはジェンダー平等も同じ。
私たちは、人権が保障され、ジェンダー平等を実現できる社会をめざして、社会を構築する努力をしており、日本国憲法のいう「個人の尊厳の尊重」という精神を軸にして、全ての人間には基本的人権があり、対等平等の権利を与えられているという社会を構築することをめざしている。
しかし、これらは簡単に破壊できるものでもある。破壊する力をもつ最大のものは戦争だろう。戦争によって、人類が積み重ねてきた国連憲章や日本国憲法の基本原則は、いとも簡単に葬り去られる。日本政府が、アメリカに従属する形で、日本国憲法の基本原則を破壊しようとしているのは、戦争を準備しているからに他ならない。
人間は皆平等、基本的人権はすべての人に与えられているというこの思想を、自民党の憲法草案は否定している。
どうして、この人権思想を否定するのか。
それは、現時点でもはっきりしている。戦争を準備しているからに他ならない。
国民の権利を踏みにじらないかぎり、戦争はできない。
憲法草案を自民党がつくったときに、片山さつきさんが、「われわれは天賦人権説をやめました」と語った。自民党の憲法草案は、戦争を始められるように、人権思想を相対化して、国家が国民に命令できる憲法をつくりたいという意志に貫かれている。それは、第二次世界大戦の中で侵略戦争を繰り返してきた日本への先祖返りであり、戦後の日本の民主主義の否定に他ならない。
般若心経の言うように、全ては変化の中にある。戦争の世紀は、人類が積み重ねてきた基本的人権を根本から破壊する。第三次世界大戦が起こるとすれば、それは人類が第二次世界大戦以後、営々と積み重ねてきた人権思想の破壊として現れる。
般若心経の和訳を読んで、そんなことを考えた。



