不登校問題の論文を2つ読んだ

雑感

学ぶことの意味はどこにあるだろうか。大人になってからの学びは、事実の捉え直しと、実践の新しい指針を得ることなのかも知れない。議員活動の面白さと素晴らしさは、世の中を変化させる「新しいもの」を自分の力で生み出すところにある。質問などの準備は、事実の整理と質問の観点の整理なしにはできない。この作業には必ず「新しい発見」がある。事実に分け入って、新しい視点を得て、質問を鋭く準備する。準備のたびに、自分の中には必ず「新しい観点」、「新しい視点」が生まれる。

これは、講師の準備にも言える。テーマを与えられて準備をすれば、ほんの少しでも、必ず「新しい観点」、「新しい視点」が生まれる。

今日は、明日の後期高齢者医療広域連合会計の説明を求められたので準備をした。準備には5時間半ほどが必要だった。そのあと、不登校の論文を2本読んだ。議会と自治体の4月号と5月号の論文だった。不登校になっている児童・生徒は心に傷を負っている。その原因の一つは日本の競争的な学校という社会システムにある。不登校をなくすためには、日本の歪んだ教育システムを、子どもに寄り添い、多様な子どもを受け入れるものに作り替える必要がある。言い換えれば、不登校の子どもたちの声に耳を傾け、これらの子どもたちが行きたいと思えるような学校に作り替えることが求められている。

学校は人間が豊かに育つ場、集団で生きる人間が、互いの違いを認め合い、他人を理解し、心の交流が図れるような豊かな場になってほしい。競争によって、子どもの残酷さが助長されるような人間観が醸成されている。日本の学校教育という歪んだシステムが、X(エックス)に象徴されるような、他者を徹底的に攻撃して入るにもかかわらず、それを「正義」だと捉えているような感情を再生産していることを、深く考えなければならない。歪んだ競争教育が歪んだ人間観を醸成している側面がある。

クラスの中に何人も不登校の子どもがいるのが当たり前というような学校とは一体何なんだろう。個別最適化と言って、子どもをバラバラにして、学ぶ機会を与えるかのような仕組みを作って、対応している努力は、不登校の子どもたちに寄り添う大事な仕事でもあるが、学校と切り離して、個別に対応することによって、教育の中心である学校が、次第により一層競争的になるように組織されてく。
不登校対策は、学校の問題ではないかのような切り離しが行われ、それを通じて学校がより一層歪んでいく。不登校対策のこの構図は異常だろう。競争教育によって生まれている不登校の問題を真正面から考えないで、教育の本流から切り離すことによって、より一層学校が歪んでいくという構図はグロテスクでもある。

不登校が生まれない優しく子どもを受け止めることのできる学校。それを求めたい。学ぶことによって、新しい視点が手に入ったので、感想を書いておきたい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明