議員は先生ではない
相手の話を一生懸命に聞く。そうしたいと思っている。でも、最後まで聞くに徹することができない。今日はしゃべってしまった。反省。
議員を先生と呼ぶのは嫌だし、呼ばれたくない。一番嫌なのは、議員同士が先生と呼び合うこと。
「何が先生なのか」
「なんで先生なのか」
議員になって、偉くなったことは一つもない。大変な選挙に勝つ勲章として「先生」と呼ぶのか?
それにはかなり違和感がある。
議員が偉いわけではない。とにかく議場で黙っている議員は、議案について理解していない。最近は強くそう思っている。住民にとって大変問題のあることを決めていても、理解できていないから黙っている。理解しないまま黙って賛成している議員もいる。選挙に勝ちさえすれば議員になれる。しかし、議員になったからと言って、行政の内容が理解できるかと言えば、そんなことはない。努力をしなければ政治の中身は分からない。議員バッチには先生と呼べる内実はない。
教師、医師、弁護士、税理士、柔道整復師など、先生と呼ばれる人々は、国家資格を得て、仕事をしている。この人たちは、先生と呼ばれるようになるまで、一生懸命勉強や努力をして資格をえている。そしてその資格の上にさらに努力をして、社会に貢献している。そういう人々は、先生と互いに呼び合ってもいいし、呼ばれてもいい。
しかし、議員は、国家資格を得ていない。選挙で勝っただけの人だ。もちろん、選挙は厳しい。選挙を勝ち抜いてきた値打ちはあるが、選挙に勝てる議員=いい議員でないことも明らかだ。
議員になって、死に物狂いで行政の仕事や政治のことを理解すれば、「先生」になれるのかも知れないが、しかし、それは何処まで行っても素人の域をでないと思う。一知半解のまま議員の仕事をしているという姿勢の方が大事だと思う。国民主権の代弁者として、議会で発言しているので、議員は庶民と同じ存在だと思う。
日本共産党員の中では、議員のことを先生と呼ぶ人はいない。国会議員に地元に来てもらっても、接待することはほとんどない。食事を提供する場合でも同じ弁当を食べる。だいたい、時間刻みで受け入れるので、食事を済ませて来る人が多いし、夕方には帰る人も多い。夕食をともにしても、食事代を地元が出すこともほとんどない。議員は「議員さん」とか姓をさん付けで呼ぶことが多い。党員同士は、対等平等なので国会議員だからといって特別扱いはしない。地方議員よりも国会議員の方が上という意識もない。働いている分野が違う。制度は、市町村という末端の自治体で具体的に実現することが多い。国会議員の知らない形で具体化されている制度も多い。市町村の独自の施策が加わっていることも多い。政治的な位置に違いがあるだけなので、国会議員が偉いわけではない。
この習慣は自民党とは違う。自民党は国会議員のことを先生と呼んでいるようだ。しかし「先生」と呼ばれるほどの内実はないだろう。国民主権の原則があるのに、自民党の国会議員の中には、一般庶民よりも企業の力を頼りにし、大きなプロジェクトに心血を注ぎ、福祉や教育のことに対しては、ほとんど関心を示さない人が多い。
たとえば世耕さん。この人は、生活保護者へのバッシングを行って、保護費を切り下げることや、あたかも多くの保護者が不正受給してるかのような攻撃をおこなった人だ。この攻撃によって保護費の切り下げにつながっていったことは忘れられない。生活保護を受けている人々を苦しめた人を、ぼくは先生と呼ぶ気持ちにはなれない。
自民党の組織が、選挙応援に有名な大臣や総理大臣を呼んだときの扱い方は知らない。地元からお金が動くことはあるのだろうか。それも知らない。
議員は何の資格もないので先生とは呼べない。作家で有名になった人々は、数多くの賞を受賞している。自分の作品で食べることのできない作家は「物書き」だったりする。作家で先生と呼ばれている人たちには内実がある。
議員を先生と呼ぶのはやめていただきたい。




まあ、言う方が楽だという事もありますね。
取り敢えず、
「先生」
と、言っておけば波風も起きないという考え方ですね。何年前かな、20年以上前になるかな? 朝まで生テレビ、という深夜のテレビで、大島渚が
「先生というのをやめろ!」
というのをしつこく国会議員や出演者にゆっておった関係でか、国会議員が国会答弁でそれまで、
「先生の御指摘に関しまして・・・」
と言う言葉がなくなり、
「議員の御指摘に関しまして・・・」
と言う言葉に変わった。時たま、間違って、
「先生の、」
と、言葉を間違えてる奴がいるが、これ、すなわちテレビに映らない時には、「先生」を使っているのだなあ、と思ったのだが、まあ、この言葉は融通無碍なところもあり、余りセンシティブに考えなくてもいいのではないかと思う次第であります。
東芝先生。