自治体分析は事実の積み重ねで

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日本共産党の中央委員会のホームページで、「国・県いいなり」という単語を検索しても、この表現には出会わなかった。
しかし、Googleで検索するとかなりの件数がヒットする。
地方の党の分析には、「国・県いいなり」という表現が多い。
しかし、このような分析の仕方に、ぼくはいつも違和感を感じる。特に「国・県いいなりの市政」などの表現に出会うと、本当にそうなのかと思ってしまう。
もちろん個々の問題では、市町村が国や県のいいなりになって事業を推進することはあるだろう。事実、それはかなり多いかも知れない。
今年起こった具体的な事例で見てみよう。
道路特定財源について県下全市町村でデモ行進をおこなおうという提起が和歌山県からあったときに、和歌山県下のすべての自治体は、この提起にしたがって全市町村で行進をおこなった。全市町村町が、この運動に参加して、存続を訴えるというプレッシャーを感じさせるこのようなケースの場合、反旗を翻すのにはかなりの勇気がいる。この場合、首長は、県のいいなりになって道路特定財源擁護の立場に立った、と言っていいだろう。
しかし、「国・県いいなりの市政」というように、「────の市政」という規定の仕方は、どうしてもすべての施策が「国・県いいなり」ということになってしまう。これは事実に合わない。
国も県も市町村の行政運営について、全行政の運営に口を挟むようなことはない。自治体には、自治体固有の問題がたくさんある。自治体は、すべての事業を国と県の指示に従って実施している訳ではない。
なお、当然のことだが、「国・県いいなりの市町村政」という場合、前提の問題として国と県が悪政を推進していることを事実をもとに証明しないと、「国・県いいなりの市町村政」と言っても何のことなのか分からない。
同時に、「国・県いいなりの市政」という分析は、自治体固有の責任を免罪するようなニュアンスがつきまとう。国や県の悪政に追随する市町村政という場合、悪いのは国や県であって、自治体はこの悪政に追随しているだけだ、というようにも聞こえる。
しかし、地方自治体は、国や県と同じ態度に立つ場合も、その態度は、最終的に自らの意志で選択したのであり、自治体の責任は重いのではなかろうか。
国は、通達や通知で見解を示し、考え方をたえず自治体に徹底しようとしている。結局議員が向きあっているのは、国の考え方だったりする。
しかし、そういう自治体を変えるためには、地方自治体には固有の権限があり、この課題で県の指導に従う必要はないことを明らかにし、自治体に自主的な対応を求めるところまで、問題点を明らかにする必要がある。
物事はいつも具体的だ。批判すべきは、国や県と同じように悪政を推進している事実よりも、自主的な姿勢の欠如にあると思う。自治体の自主性のなさが市民のくらしや権利を圧迫していることを明らかにしないと改善の方向は見えないし、責任の所在も明らかにならない。
事実の分析による批判、紋切り型の排除、常識とされている概念を疑ってかかること、当たり前だとされている理論を、自分でもう一度分析し、同じ結論になるのかどうか見極めること、これが大事だと思う。証明抜きの論理には説得力がない。
日本国は、大企業べったり、アメリカべったりの政治をおこなっている(今回はこの問題が主題ではないので事実の提示はしないが)。この図式を地方におきかえて、「国・県いいなり」というような表現が生まれているのだとすれば、それは、事実の分析ではなく、分析なしの紋切り型だろう。
自治体分析は事実の積み重ねによって。
嫌うべきは、図式主義、紋切り型。


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Posted by 東芝 弘明