阪神・淡路大震災から14年
午前中、生活相談のために事務所で人と会った。午後は岩出市で会議。会議終了後選挙のお手伝い、夜は、妹の家に行き、兄弟で話し合うことになっていたので、和歌山市に車を走らせた。
帰り道、夜遅くなったので眠たくなった。
阪神淡路大震災から14年が経った。ボランティアに2回行き、あの震災の現場で活動したことが思い出される。少し、震災の状況を引用してみよう。
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒、淡路島北部(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として発生したM7.3[1]の兵庫県南部地震は、淡路島や阪神間(神戸・芦屋・西宮・宝塚・尼崎・伊丹・豊中・川西・池田など)、あるいは、東播磨地方(明石・三木など)の兵庫県を中心に大きな被害をもたらした。特に、神戸市市街地は壊滅状態に陥った。(ウキペディアより)
この震災による死者は、6437人だった。
1回目の支援に行ったときは、大阪の吹田を経由して神戸に入るという方法を取った。国道を神戸に向かったが、神戸に近づくにつれて、家屋の倒壊状況が目に見えてひどくなり、車の中から驚きの声がどんどん重なっていった。
東灘区に入り、住宅の基礎だけが残る跡地に立ったり、神社の建物の倒壊現場や商店街の惨状を見て息をのむような思いをした。
あの寒空の中で、暖かかったのは人々の連帯だった。
日本共産党は、国会の中で個人保障をくり返し訴えた。当時の政府の態度は、「日本は資本主義国家なので個人保障はできない」というものだった。しかし、かなりの時間がかかったが、やがて個人保障が認められるように変化した。日本共産党が、現地にボランティアによる復興支援センターを設置し、救援活動に全力を尽くしたことも含め、神戸で果たした役割は大きかった。政党としての活動の中では、他の政党をまったく寄せ付けなかった。
ぼくは、ボランティアの一員として、ハンドマイクを持って街頭で救援物資を配布したり、飲料水をタンクに積んで配布する活動を行った。
ぼくの胸の中に今も鮮明に残る記憶。
人間は、あの震災から深い教訓を導き出しただろうか。
それが、やはり問われている。自分の家庭はどうかという点からはじめなければならないが、点検していくと極めて心細い感じになる。
1月17日。この日は、忘れられない日として、この日を起点に色々なことを積み重ねるようにしたい。