昭和殉難者法務死追悼法要の案内が来た
「昭和殉難者法務死追悼碑を守る会事務局」
かつらぎ町の築野食品には、この名の事務局が置かれており、そこから数日前に封書が届いた。殉難者法務死とはいったい何だろう。封筒を開けると、返信用のはがきとともに3つ折りにされた2つの文書が出てきた。1枚は年次法要の案内、返信用のはがきは、年次法要への出欠席の返事を求めるもの、もう1枚は「同期の桜を歌う会」の案内チラシだった。
読んでいると次の一文に目がとまった。
「終戦の聖勅が下り、過酷な戦争を生き抜いた安堵感に浸る間もなく、戦犯として拘束され、処刑された方々が続出しました。その皆様のご無念は如何ばかりでありましょう。又その汚名を共に耐えられたご家族の御難儀は察するにあまりあります」
「その名誉を挽回しご無念を晴らすために、平成6年5月14日前橋陸軍予備士官学校出身の有志の働きかけにより、聖地高野山奥の院の英霊殿横に建立されたのがこの追悼碑であり、爾来毎年追悼法要が執り行われてまいりました」
追悼碑は1994年に建立されている。建てたのは、元将校らが立ち上げた「追悼碑を守る会」並びに陸軍士官学校および防衛大学OBによって結成された「近畿偕行会」だ。追悼碑には、戦犯として処刑されたり収容所で病死や自殺したりした合計1180人の名前が刻まれている。
安倍晋三首相は、昨年の4月29日、年次法要に対し「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」というメッセージを送り問題になった。この法要にメッセージを寄せた首相は安倍総理だけ。そういう意味でも総理の態度は突出している。
安倍総理は、日本国の代表なので、ポツダム宣言とサンフランシスコ平和条約を守る責任がある。これを守る立場と戦犯を殉難者として追悼することは相いれない。
死者を弔うことに反対しているのではない。追悼することに反対しているのではない。問題なのは、戦犯の名誉を挽回し無念を晴らすために追悼しているところにある。
どうして、こういう法要の案内が手元に届くのだろう。追悼式への参加を呼びかけられるのは、納得がいかない。かつらぎ町の全ての議員や高野町の議員に案内が出されているんだろうか。
極東軍事裁判でA級戦犯とされた人は、「平和に対する罪」に問われた人、B級戦犯は「戦争犯罪」、C級戦犯は「人道に対する罪」となっている。戦犯とされた方々の中には、上官の命令に従わざるを得なかった中で、捕虜を殺害した人も含まれている。こういうことが発生した背景には、日本軍が国際法を全く守らず、捕虜を虐待したり虐殺したという問題がある。日本軍には、国際法上守るべき規範が徹底されておらず、それとは大きく矛盾する「軍人勅諭」や「戦陣訓」が用いられていた。
たとえば、戦陣訓には、「恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」という武士道精神につながるような、訓令があった。
捕虜になるぐらいなら死ねというこの訓令は、裏返せば日本軍の捕虜の扱いに直結する。
ウキペディアの捕虜の項に次のような文章がある。
「連合国側は、開戦直後から日本にジュネーヴ条約の相互適用を求めた。日本は陸・海軍の反対でジュネーヴ条約を批准しておらず、調印のみ済ませていた。日本側は外務省と陸軍省などの協議の結果、ジュネーヴ条約を「準用」すると回答した。回答を受けたアメリカ・イギリス側は批准と同等と解釈した。そのため、捕虜とした連合国兵士の扱いについては戦時中から連合国側から不十分と非難されていた。
太平洋戦争では、特に緒戦において連合国軍軍隊の大規模な降伏が相次ぎ、日本側は相当数の捕虜を管理することとなった。大規模な捕虜が出た戦いとしては、フィリピンの戦い、蘭印作戦、シンガポールの戦い、香港の戦いなどがある。これら多数の捕虜の取扱いについて、必ずしも十分な保護が与えられず、バターン死の行進、サンダカン死の行進などの事件が生じた。その原因は捕虜への考え方の違いもさることながら、日本の予想人数を大幅に超えたことや、日本軍自身の兵站が十分ではなかったことや、劣勢のため捕虜の保護が十分ではなかったことがあげられる。また、捕虜の扱いを軽視していたため、俘虜管理部の軍での地位は低く、ジュネーヴ条約の内容について、管理者に指導することもなかった。
戦後にポツダム宣言により、捕虜を不当に取り扱ったとされた軍人等が連合国による東京裁判、軍事法廷で裁かれ、処刑される者が多かった。代表的な人物として、比島俘虜収容所長(1944年3月-)となった洪思翊中将などがいる。その他、憲兵にも戦犯とされた者が多かった。
東京裁判は判決で、日本の捕虜になったアメリカ・イギリス連邦の兵士132,134人のうち35,756人(約27%)が死亡したと指摘している。」
「私は貝になりたい」という映画で描かれたように、本当に戦犯として裁かれる人だったのか、ということが問われ、名誉の回復が求められる人もいるだろう。捕虜の扱い方の国際法を全く知らず、上官の命令は天皇陛下の命令だと思えという軍隊の中で捕虜を虐殺した人が、戦犯として裁かれてもいるが、この問題で最も問われているのは、日本の戦争を遂行した中枢部だろう。
いずれにしても、日本が引きおこした侵略戦争の中で、全ての戦犯が、殉難者法務死だったというのは、理解しがたい。この態度は、日本の侵略戦争をすべて肯定することに真っ直ぐにつながる。
自虐史観という言葉には、ものすごく違和感を感じる。歴史にとって問われているのは、歴史的な事実であって、日本が引きおこした戦争を反省することを、自虐だとか自虐でないとかいう視点で見るのは、そもそも歴史観としてはおかしい。科学的ではない。
日本の戦争が、侵略戦争であり、アジア諸国民の命を2000万人も奪った戦争だったこと、日本国民310万人の命を奪った戦争だったこと、日本の軍隊が、補給作戦もなく、南方の戦線では、軍事戦略上も極めて無責任な作戦を組み立て、多くの日本兵が餓死したこと、こういう戦争を引きおこしたのは、人間であり、戦争遂行を判断した軍人がいたこと、日本の政府は、たとえ内閣総理大臣であったといしても、しかも、その大臣が軍人出身の大臣であっても、大本営の作戦計画については、関わらせてもらえず、後日話を聞くことが多かったこと、天皇を頂点として大本営が作られ、海軍と陸軍が作戦を遂行していたが、15年戦争の全体に関わっていたのは天皇一人だったこと、本土決戦が問題になったときに、天皇制国家の中枢部が守ろうとしていたのは、天皇自らの命ではなく、天皇自身が拘束されるような事になっても、3種の神器だけは松代大本営の中の秘密の場所に隠そうとしていたこと、この3種の神器こそが守るべき国体の本体であったということ、つまり日本は神話によって成り立っていた国であったということ等々、こういう歴史的な事実のもとで何が引きおこされていたのかを見ることによって、戦争の性格を見定める必要がある。
日本は、ドイツのヒットラー、イタリアのムッソリーニと日独伊3国軍事同盟を結び、世界各国に対し戦争を引きおこした。これが第二次世界大戦だった。
日本には、国民主権は存在せず、主権者は天皇であり、この体制を批判するものは治安維持法などの弾圧法によって徹底的に弾圧され、ときには拷問による虐殺も行われた。国と軍の最高権力者は天皇であり、国民は天皇の民草だった。
戦争反対を唱えることは犯罪であり、国民主権を求めることも犯罪だった。このような非民主的な国が、国際法も守らずに野蛮な侵略戦争を展開し、敗北したというのが、第二次世界大戦の結末だった。
その結果、日本では国民主権が実現し、天皇は国政に権能を有しない象徴となった。国民主権と基本的人権、恒久平和、この戦争の教訓である戦後の体制によって、日本は発展した。
統一ドイツの初代大統領であるワイツゼッカー氏は、1月31日に亡くなられた。
この人が戦後40年のときに行った「荒れ野の40年」という演説は、まさに歴史に残る演説だった。この演説を最後に紹介したい。この演説は、当時日本でも深く受けとめられた。日本の戦争とヒットラーの戦争を重ね、ワイツゼッカー氏の言葉をもう一度、今のこのときにふり返る意味は深い。あの演説から30年。演説は今も生きている。
(ワイツゼッカー氏が戦後四十年にあたる一九八五年五月八日、西ドイツ(当時)の首都ボンの連邦議会で行った演説の要旨は次の通り。)
五月八日は記憶の日である。記憶とは、ある出来事を誠実かつ純粋に思い起こすことを意味する。
われわれは戦争と暴力の支配で亡くなったすべての人の悲しみを、とりわけ強制収容所で殺された六百万人のユダヤ人を思い起こす。戦争に苦しんだすべての民族、命を落とした同胞たちを思い起こす。虐殺されたロマや同性愛者、宗教的・政治的な信念のために死ななければならなかった人たちを思い起こす。ドイツ占領下の国々での抵抗運動の犠牲者を思い起こす。数えられないほどの死者の傍らで、悲しみの山がそびえ立っている。
確かに、歴史の中で戦争と暴力に巻き込まれることから無縁の国などほとんどない。しかしユダヤ人の大量虐殺は歴史上、前例がないものだ。
この犯罪を行ったのは少数の者だった。あまりにも多くの人が、起こっていたことを知ろうとしなかった。良心をまひさせ、自分には関わりがないとし、目をそらし、沈黙した。戦争が終わり、ホロコーストの筆舌に尽くせない真実が明らかになったとき、それについて全く何も知らなかったとか、うすうす気付いていただけだと主張した。
ある民族全体に罪があるとか罪がないとかいうことはない。罪は集団的ではなく個人的なものだ。発覚する罪もあれば、ずっと隠されてしまう罪もある。あの時代を生きたそれぞれの人が、自分がどう巻き込まれていたかを今、静かに自問してほしい。
ドイツ人だからというだけで、罪を負うわけではない。しかし先人は重い遺産を残した。罪があってもなくても、老いも若きも、われわれすべてが過去を引き受けなければならないということだ。
問題は過去を克服することではない。後になって過去を変えたり、起こらなかったりすることはできない。過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になる。非人間的な行為を記憶しようとしない者は、再び(非人間的な行為に)汚染される危険に陥りやすいのである。
人間の一生、民族の運命という時間の中で、四十年の歳月は大きな役割を果たしている。この国には、新しい世代が政治的な責任を引き受けられるまでに成長してきた。かつて起きたことについて若者に責任はない。しかし、その後の歴史で生じたことに対しては責任がある。
われわれ年長者は、過去を心に刻んで忘れないことがなぜ決定的に重要なのか、若者が理解できるよう手助けしなければならない。冷静かつ公平に歴史の真実に向き合えるよう、若者に力を貸したいと思う。
人間は何をしかねないのか、われわれは自らの歴史から学ぶ。だからわれわれはこれまでとは異なる、よりよい人間になったなどとうぬぼれてはならない。
究極的な道徳の完成などあり得ない。われわれは人間が危険にさらされていることを学んだ。しかしその危険を繰り返し克服する力も備えている。
ヒトラーは常に偏見と敵意、憎悪をかき立てるように努めていた。
若い人たちにお願いしたい。他人への敵意や憎悪に駆り立てられてはならない。対立ではなく、互いに手をとり合って生きていくことを学んでほしい。自由を重んじよう。平和のために力を尽くそう。正義を自らの支えとしよう。(2月4日東京新聞)











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