富田林市の寺内町





今日は休みを取って、熊取町のEさんといっしょに富田林市のAさんに会いに行った。合流したのは午前10時、富田林駅だった。
河内長野駅まで電車で行って、近鉄線に乗り換え富田林駅で降り、南出口に出るとAさんとEさんの笑顔が見えた。Aさんとの再会は25年ぶりのことだった。
Aさんは、合う前から「寺内町(じないまち)を案内します」と言っていた。寺内町は富田林駅の南に広がる地域で、東西南北350メートルの面積をもっている。ここは、江戸時代の町並みが残されている地域であり、今日はAさんの案内で碁盤の目になっている町並みを歩くことになった。
この町並みの保存運動は、Aさんが日本共産党の市会議員だったときに取り組みはじめ、次第に実現したものだった。もちろん、住民のみなさんが一緒になって立ち上がり、次第に保存運動として広がったものだった。この町並みを残した努力は、歴史を生かし未来につながる努力だった。
パンフレットには、寺内町が形成されたのは1558年から1569年と書かれている。形成する中心になったのは、興正寺の門跡証秀上人であり、荒れ地だったこの地を銭百貫文で所得し、「近くの4ヶ村の庄屋各2人、計8人に興正寺別院の建立と畑屋敷、町割などの建設を要請したのがはじまり」とされている。
ときは戦国時代、乱世の時代、このまちは夜になると門を閉め、外部から入ってくる人間をくい止めるような形をとっていたのだという。碁盤の目のようなまちになっているが、四つ角は、わざとぐいちに作られ、道が真っ直ぐには見えないような工夫がなされている。寺内町は、時代の変遷とともに商家が集まるまちになり発展した。江戸時代の町並みが残るまちには、独特の趣があった。
寺内町は、大きな蔵と外壁のある家が続いている。商家が建築に工夫をこらして家を建ててきた歴史があるのだという。
町並みを歩き始めて最初に足を止めたのは、富田林市の元市立警察署跡に整備された公園だった。公園の説明板には、今もこの公園のとなりには交番がある。市立警察署というのは自治体警察のことで、富田林市には、戦後も1950年代まで市立の警察署があったのだという。市の職員である警察官がいたということだ。
公園には、石上露子(いそのかみつゆこ)という明治時代の歌人の詩碑があった。石上露子の本名は杉山タカという。この方の住んでいた旧杉山邸は、昭和58年(1983年)に国の重要文化財に指定されている。杉山邸は、寺内町が形成された当初からあった旧家の1つであり造り酒屋だった。
杉山邸は、散策の最後に立ち寄って説明を聞かせていただいた。
杉山邸の話を書くと、非常に長くなるので筆を止める。400年続いた旧家で、半解体し修復し再建築された屋敷は、江戸時代の古図に基づいている。パンフレットには、「1747年ごろほぼ現状の形に整った」と書かれていた。市がこの杉山邸を買い受けたのは1983年6月、金額は1億6600万円だった。解体修理を行った時の費用は2億3000万円だった。
日本は、あの戦争によって歴史と伝統を破壊され、戦後はどんどん古いものを新しいものに置きかえてきた。日本的な文化や歴史を断絶させたのはあの戦争だったという指摘をした作家もいるが、本当のところはどうなのだろう。どうして、日本は、古いものを新しいものにどんどん置きかえてきたのだろうか。
こういう文化的な傾向があるなかで、富田林市の寺内町が、昔の形を今日に残しているのは貴重なことだと思う。
杉山邸の中で屋敷に上がらせてもらって歩いていると、なんだか心の底に何かが染み込むような感じがあった。日差しは少しきつかったが、青い空と澄んだ空気が、町並みをきれいに見せてくれていた。自然から拝借してきた木と土から作った壁、土を叩いて固めた土間、燃料として使われていた炭、良質の水が湧いた地域。この水を生かして大きく発展した酒屋。作るものが自然な形で環境と調和する文化を持っていた日本が、ある時期から急速に失われて行き、現在の建物がある。
歴史と伝統を今日に生かすような心。歴史的な変遷を大切にする心。そこから学ぶことは多い。









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コメント一覧
「地内町」とありますが、正しくは「寺内町」なので、訂正お願いします。A
ごめんなさい。自動で変換するので間違いにきがつきませんでした。訂正しました。申し訳ないです。