感覚を磨く
ふと思ったので書いておきたい。
自分のもっている感覚を磨く、という場合、どういうことが考えられるだろうか。
五感を磨く場合、身体的な実践、繰り返しの訓練によって感覚が磨かれるケースが多い。
接骨院の先生が言った。
「指先の感覚が非常に敏感になっていて、体のどの部分がこっているのか、どこに足の痛い原因があるのか、非常によく分かるようになっている」
これは、長年仕事に携わってきた結果、身についた感覚だろう。
スポーツ選手が、自分の競技に対して、極めて研ぎ澄まされた感覚を持っているのもよく知られている。
大工さんが、
「サシで計らなくても長さが分かる」
料理人が、
「感覚的な分量で同じ味を再現できる」
こういうことは、枚挙にいとまがない。
感覚は、身体に備わったものだが、磨かれた感覚というものは、どうやって育まれるのだろうか。
人間には、外界を受けとめて反応するという機能、まさに感覚機能が生まれながらにして備わっている。この生まれながらにして備わっている感覚機能が、人間の意識的な努力によって変化していくということだろう。
体の全体の機能を無意識のうちに使い、さらに脳の働きの助けによって培われていく感覚。脳も体の多くの感覚も、無意識のうちに多くの知(こう読んでいいのかどうかは分からないが)を関知する。脳は潜在意識下で瞬時に物事を判断しているが、人間的な努力の積み重ねが、次第に外界からの刺激を感知する能力を高めていく。それが感覚を磨くということにつながっていく。
うちの娘は、4歳の頃からピアノを習い17歳になっている。毎日のようにピアノを弾き、多くの曲に挑戦してきた中で、最近は曲を聴くと耳コピで音を取ることがかなりできるようになっている。歌を歌うと目の前でリコーダーを吹いて曲を再現したりする。こういう音に対する感覚は、長い時間をかけてピアノを練習してきた結果として身についた感覚だろう。
訓練によって感覚が磨かれるということに対して、あまり異論はないように思われる。忘れがちなのは、学習によって感覚が磨かれているということだろう。単に訓練だけしていれば、感覚が磨かれるというのではなくて、例えばピアノが好きだという人が、ピアノを練習することによって、無自覚的にしているのは、ピアノの練習を通じてピアノ演奏とは何なのかを繰り返し考えていることにある。身体的な練習だけではなくて、それこそ脳の助けを通じて、練習しているものに対して、考え続け、認識を豊かにしているという側面がある。
訓練・練習とあわせて、人は訓練や練習に対して、認識を豊かにし、認識が豊かになるにつれて感覚も豊かになっているということだろう。
音楽に対する豊かな知識に対する学習、楽譜についての学習、楽譜を見れば音が浮かんでくるような学習、音楽理論の蓄積と音に対する感覚とは、思っている以上に不可分一体なのだと思う。もちろん、人には個人的能力の差があり、この差がある種、決定的でもあるように見えるが、他の人を遙かに凌駕して行く人というのは、学んでいる対象に対して、非常に深い認識を感覚を磨きつつ獲得しているように見える。
脳の助けをかりて幅広く学んでいる人が、さらに鋭い感覚を身につけていく、というのはいえることなのではないだろうか。
それは、知的な学問や知識を駆使して仕事をしている分野でも同じことがいえる。学びつつ努力している人は、自分の専門分野に対して、鋭い感覚を身につけていく。物事を深くとらえようとする努力、対象に対する深い認識が、豊かで鋭い感覚を身につける力になる。多くの人が気がつかない問題を、瞬時に把握し、専門的に解き明かす力は、ある種、非常に感覚的な鋭さを伴っている。
専門的な講師による講義を聴いても、そこから何を学ぶのかは、聴く人の技量に大きく左右される。同じ話を聴いても、受け止めには非常に大きな違いがあり、講義に対して発せられる質問にも、ものすごく大きな違いがある。
「一を聞いて十を知る」ということわざがあるが、豊かな実践と学習を積みかさね、専門性を身につけている人ほど、同じ話なのに聴いた話に対する反応が違ってくる。瞬時に理解する、瞬時に反応するというのは非常に感覚的だが、たえず物事をより深く、より広く、より連関の中で把握しようとしている人は、極めて感覚的に物事の本質を把握し、質問を発することができる。身体に備わっている豊かな感覚器官と脳の助けをかりて、人間は潜在意識下で物事を判断できる。
学習と実践。いいかえれば理論と実践。これによって人間は鋭い感覚を身につける。
このことを自覚して、努力をすることが、人間をさらに発展させる。音楽やスポーツ、学問、専門的技術、専門的知見の全てにおいて、学習と実践が、感覚を磨くことを生み出すのだということを認識した上で学習プログラムを組み立てていくことが必要だろう。
そのようにとらえ直せば、いろいろな分野における学習プログラムにメスを入れることは可能になるのではないだろうか。










ディスカッション
コメント一覧
人間の熟練の技は、素人がみるとまるで機械のようで驚きますよね。メカニカルな動きに惚れ惚れしてしまいます。プロのなかでは、そういった次元を超えて、追究がされ続けるでしょうけど。
このことと関連するかどうか、最近気になるニュースが続いています。それは、人工知能分野の発展です。
90年代のチェスから少し経ちましたが、将棋と囲碁はプロ級となったようです。
小説を書くことでも、星新一賞一次選考通過というニュースを今日見ました。
もちろん、人間活動全体では、一分野にとらわれない様々な知恵が必要ですが、それでもこれらのニュースは十分衝撃的です。人間とは何か、に繋がっていくことだと思います
なかみちさん。
人間の意識は、全ての物に存在する反映を基礎にしているようです。植物にもさまざなま意識があり、文部科学省も植物の意識についての研究をしています。脳は、人間の思考の全てをつかさどっているように見えますが、脳という機関は身体のさまざまな感覚器官と直結しており、体全体から得た外界からの刺激に反応して、深く影響を受けています。
意識が物質の相互作用による反映と同じ仕組みを持っているということは、科学が発展すれば、それを再現できるということにつながります。チェスや将棋、碁という特化した部分に限定して、コンピューターを作れば、人間の思考に勝ることができるようになってきたということですね。
小説を各機能というのは、おそらく文学の情報をコンピューターに記憶させ、それを組み合わせていく、という中で実現しているのではないでしょうか。
人間とコンピューターに絶対に超えられない垣根のようなものはないと思います。しかし、人間の脳や身体機能を器械で再現することは、まだまだ非常に遠い先のお話しだと思います。
人間の脳は、ものすごく複雑です。身体全体を通じて外界を反映しているなかで、脳が動いているので、自分の意思だけで自分をコントロールできないのだと思います。
脳の中の情報処理が潜在意識下でおこなわれているのを実感するのは、人との会話です。人は他人の発言に対して瞬時に反応し、問われると、瞬時に長い反論を試みます。一体どこで考えをまとめて、自分の発言としてアウトプットしているのか。考えてみると不思議ですよね。
情報をインプットしたら自然とアウトプットが出来上がる。アウトプットの組み立てについて、時間をかけることはない。最近はこんな感じですね。ブログに書いている文章も、一般質問の原稿も、アウトプットのために考えている時間は、ほとんどありません。書くテーマさえ決まり、書きたい分野に対する認識が豊かに存在すれば、潜在意識下でアウトプットは組み立っているという感じです。
よく考え抜いた構成にするためには、一旦書いてみて、自分の書いたものを読んで、インプットし直し組み立て直すようにすればいいと思います。こうこうことも滅多にしませんが。
余談ですが、カール・マルクスがたくさんの草稿を断片的に残したというのは、自分が調べたことについて書き、それをさらに深めていったということだと思います。草稿がどんどん変化したのは、新しい情報の収集、新しい論文の研究によって、新しい知見を得たからだと思います。
それを繰り返していくなかで、誰も明らかにできなかった資本主義的搾取の秘密、剰余価値の生産がどこで生まれたのかを解明したのだと思います。経済学の研究に入り、この認識にたどり着くのにマルクスが費やした研究の時間は、いかほどだったのか。
でも科学の研究者は、マルクスと同じことをしていますよね。天才的な発見は、徹底的な研究(=つまり自分の意識の外にある客観的な事物の研究)という失敗の上に生み出された努力の結晶だと思います。