「田んぼ、去年も田植えしてなかったで」
朝、雨はほぼ止んでいたが、地面は濡れていた。濡れた地面から漂ってくる湿った空気が見えるような気がした。時刻は5時45分だった。
「昨日も同じような朝だった」
そういう言葉が浮かんできた。隣の田んぼは、背の高い雑草が所々に生えてきていた。7月になるのに田植えは始まらない。
「今年は田植えなしかな」
娘に言葉をかけると、あきれたというような感じの声が返ってきた。
「おとうさん、田んぼ、去年も田植えしてなかったで」
驚いた。この田んぼは去年も田植えがされなかったのか。どんなに記憶をたどっても、田んぼに稲が植わっていなかった情景が浮かんでこなかった。昨年は田植えがなされて収穫もされていた、とばかり思っていた。
「いったい、ぼくは何を見ているんだろう」
目の前に毎年とは違う情景があったのに、まったくそのことに気づかないというのは、どういうことなんだろうか。
見ているようで、見ていない情景というものはある。感じているようで感じていないことがある。目の前で生起している事柄が、自分の意識の中には残らずに通り過ぎているというのは、一体どういうことなんだろうか。
意識ここにあらず。心のセンサーが、まわりの変化を受け入れておらず、頭の中は、他のことを考えて、結局は変化をはねのけている。いろいろなことを真剣に考えているのはいいことなのかも知れないが、自分の身のまわりで起こっている変化に反応できない自分のあり方というのは、なんだか悲しい。
私の実家も米作農家ですが、年々作る面積減らしています。去年までは作っていたのに今年は作っていないという田んぼも珍しくありませんね。
うちの役場は、そういう田んぼを一生懸命把握して「減反」カウントしています。