献花させていただいた
議会広報の会議が昼前に終了した。昼食会があったので高野口に行き、12時45分に料理屋を出て、橋本市で行われる葬儀に参列した。
献花だけ、なくなった女性の夫と女性の友人の挨拶だけの告別式だった。多くの友人や知人と見られる若い人が多かった。お坊さんや牧師さんがなく、読経も全くない葬儀というのは、初めてだった。参列したすべての人が献花して手を合わせた。
いつも参列させていただくお葬式というのは、式次第がきちんと組み立てられており、読経の中でお焼香を行う。でも、判で押したような告別式というのは、葬儀屋さんが長い歳月をかけて編みだしてきたものだ。高野山の総本山である高野山内のお葬式は、今日のお葬式のようにシンプルだった。お坊さんの読経の中、参列者はお焼香を行うだけで、司会者は地元の人が必要最小限のアナウンスを行うだけだ。
今日のお葬式も、高野山の山内で行われているお葬式と同じようにシンプルだった。
亡くなった人を見送る葬儀で、一番大切なのは集まってきた人々の気持ちだと思われる。別れを悲しみ、別れを惜しみ、溢れてくる思いを胸に亡くなった人と対面して、お別れをいうのが、告別式の一番大切な姿だとすれば、今日参列させていただいた告別式は、若れを惜しむ人の気持ちの溢れる告別式だった。亡くなった女性の夫が行った挨拶には、胸を打つものがあった。病気になった彼女と向きあって、彼女を支え、生きようとした人を支えて生きてきた姿勢が、挨拶を支えているように見えた。
果たして、この方のように、大切な人が亡くなったときに、挨拶ができるだろうか。泣き崩れて挨拶などできないのではないだろうか。
柩の前に立って、マイクを握り最後の挨拶をした夫の胸には、女性の遺影となった写真があった。大きな写真の彼女はアジサイの花に囲まれ、その花の中で優しく笑っていた。整った顔立ちの笑顔には、子どもたちへの思いやまわりの人への思いが溢れているように見えた。
多くの若い女性が参列していた。多くの人と心を通じ合わせて生きていた人だったのが、集まって来た人から感じ取れた。
会場を離れて車を走らせていると、日差しが温かかった。暖房を切って窓を開けて車を走らせて、ちょうどいい感じだった。
「温かくなったら、この寒さを乗り越えたら、回復するのではないかと思っていました」
という男性の言葉がよみがえってきた。
彼女の夫は、どんな思いで、気温の変化を感じていたのだろうか。暖かい日差しの中でそんなことを考えていた。
気温の変化は、多くのことを記憶に刻む。
ぼくの母は、1977年2月14日に亡くなった。2月の中旬、気温が温かくなったので、「もう一度桜の花を見せてあげたい」という思いをまわりの人に抱かせた。こういう思いを打ち砕くように2月14日から気温が急激に下がり、14日の夜には、ものすごく冷え込んできた。午後11時10分過ぎに亡くなったあと、高野山に遺体を運ぶときには、激しく雪が舞っていた。葬儀はマイナス10度まで下がった吹雪の中で行われた。吹雪の中、柩を先頭に円を描いて歩いたことが鮮明に記憶に残っている。
暖かい日差しの中での告別式は、彼女の優しさの現れだったのかも知れない。