地方分権と日本国憲法

雑感

昨日、通年議会における会期決定の議会が開催され、会期は今年の12月25日までの352日間となった。中阪町長は、地方分権一括法にふれて開会挨拶を行った。この改革によって、地方自治体と国とは対等平等の関係になったと語った。こういう関係になれば、単なる役割分担ということではなくて、地方自治体は、国の政策についても国民主権の体現者として率直に意見を述べるという観点が重要になる。

しかし、現状はどうか。国の責任に属する問題に対して、国民は意見を述べているが、地方自治体は、国の行政や政治に対して、どこまで率直に意見を述べ、改善を求めているだろうか。

ぼくのブログに対して、地方議員が憲法を論じることに対して、「地方自治の議会で憲法について議論というのは、チョットねぇ~理解しがたいことです。」と書いた方がいた。しかし、日本国憲法の大原則が、国民主権を守り基本的人権を尊重して、国家権力の手を縛るというところにあるのだから、国民や地方自治体こそが、国は憲法を守れ、憲法の精神にもとづいて国政を行えというべきだろう。憲法=国会の仕事、国の問題として捉えること自体、認識が逆さまになっているということではないだろうか。地方自治体が、憲法を暮らしの中に生かそうという観点で、自治体の仕事を見直して施策を発展させてきた歴史がある。近年では、子どもの医療費の無料化制度が、国の変化を待たずして市町村を基礎に広がっているのは、まさに憲法第25条の精神を地方自治体に生かしたものであるし、地方自治法の住民の福祉の増進を具体化したものだろう。

国民が憲法を戦いの指針にして、裁判を起こしてきたことを考えると、まさに自分たちの暮らしの現実の中で憲法のあり方を問うことの意味の大きさが分かるのではないだろうか。地方自治体の長が、憲法論議を避け、国の政治に対して意見を言わないのは、地方自治体の危機そのものではないだろうか。

国家が、基本的人権や国民主権に制限をかけるとともに、最大の国家権力の手を縛っている憲法第9条を変えようとしているときに、地方自治体の長が憲法を断固として守るべきだと態度表明を行うことの意味は強まっている。国が憲法を変えようとしているのだから、それに対しては忖度して意見を言わないというのは、まったく間違っているといわなければならない。

もちろん、地方自治体の長が、憲法改正を必要だと信じ集団的自衛権を行使して、海外で行っているアメリカなどによる戦争に参加すべきだという心情をもつのも自由だろう。そう思っているのであれば、それを述べればいい。安倍さんのように、憲法第9条に自衛隊の存在を書き込むだけで後は何も変わらないとごまかしつつ、その一方でアメリカの要請に応じて自衛隊を海外に派遣するようなことはすべきでない。やりたいのであれば、自分たちの身内の集会で語っているように、日本に国民主権はそぐわない、基本的人権の尊重はやめるべき、日本は国際貢献を果たして、海外で戦争に参加できるようにすべきだと言えばいい。そんなことをあからさまに表現すれば国民の支持を得られないのは目に見えているので、ごまかしながら自分たちの野望を実現しようとするのはいただけない。

戦争は国民をだますところから始まる。権力者は、外堀を埋め内堀を埋めて、国民が反対したら逮捕されるような仕組みを作ってから事を起こす。そのときに国民が気づいても時すでに遅し。こういうかたちで歴史は繰り返される。

ウソと偽りの宣伝による施策の推進は、暮らしの問題である消費税増税の歴史にも現れている。消費税増税と法人税減税、大金持ち減税(所得税減税)はセットで実行されてきた。ここに一つの目的があったので、消費税増税分は法人税減税の穴埋めに使われてきた。増税しても国の税収が増えなかった最大の要因の一つはここにあった。

地方自治体の長は、国民の権利を守り国家権力の手を縛っている日本国憲法を、自分たちの立場を守る最大の武器として生かさなければならない。憲法の精神が脅かされようとしている今日、自治体の長が憲法を大切にすることがいかに重要か。地方分権の中でこのことを考えていただきたい。

地方分権を主張する自治体の長は、沖縄の運動が地方分権にとってどのような意味を持っているのかを考えるべきだとも思っている。

雑感

Posted by 東芝 弘明