分解、いもりのシーン

雑感

久しぶりに志賀直哉の『城の崎にて』のいくつかの文章を読んで、志賀直哉の描写の仕方に感じ入ってしまった。いもりに石を投げるシーンは、何度読んでも秀逸だと思う。何を書いて何を書かないのか。どう描写するのか。深く考えて書かれていることを感じる。
「自分はしゃがんだまま、わきの小鞠ほどの石を取り上げ、それを投げてやった。」という書き方には、細かい描写はない。そのあと石を投げた自分の心理が描かれる。「自分はべつにいもりを狙わなかった。狙ってもとても当たらないほど、狙って投げることの下手な自分はそれが当たることなどは全く考えなかった。」志賀直哉はこの文章を挟んだ後、「石はコツといってから流れに落ちた。」と書いた。投げた石が岩に当たり沢に落ちたことだけを書き、「石の音と同時にいもりは四寸ほど横へ跳んだように見えた。」と書く。この時点で石がいもりに当たったかどうかはまだ判然としない。

普通の描写であるなら、石を投げた。当てるつもりもなかったのに、いもりが四寸ほど横へ飛んで石に当たってしまった。というような描写になる。

「いもりは尻尾を反らし、高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思って見ていた。最初石が当たったとは思わなかった。」ここでも石がいもりに当たったという直接的な表現は避けられている。
「いもりの反らした尾が自然に静かに下りてきた。すると肘を張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめってしまった。尾は全く石についた。」
ここからの描写は、あたかも自分がいもりのすぐそばに行って、虫眼鏡でいもりが死んでいく状況を克明に見ているかのような文章になる。「前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめってしまった。」まるでNHKのドキュメンタリーだ。
「両の前足の指が内へまくれ込むと」という描写は、自分といもりとの距離でいえば、とてもそんなところまでは明確に見えないのに、これを書いてみせる。ここに志賀直哉という作家の筆力が表れている。
「もう動かない。いもりは死んでしまった。自分はとんだことをしたと思った。」
この一連の文章で、自分の投げた石がいもりに当たり、殺してしまったことを浮き彫りにしている。克明に描く部分とわざと書かない部分とによって、石を投げてからいもりが死ぬまでの映像が、スローモーションのように脳裏に映る。

『城の崎にて』というエッセイ風の小説は、作品のラスト近くのこのシーンによって名作となったとぼくは思っている。志賀直哉という作家が、どういう作家だったのかを雄弁に語るいもりのシーンは、人々に深い印象を残し、このシーンによって城崎は、温泉地として有名になった。少なくとも『城の崎にて』は、この温泉地を有名にするのに大きな力になったと思う。

『城の崎にて』のような文学の力が、今の時代にも生まれるのだろうか。そんなことを考え始めている。


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雑感

Posted by 東芝 弘明