アリストテレスの善について

雑感

娘がアリストテレスの善について学んで話をしてきたので、僕も善について少しいろいろなものを読んでみた。どの時代の哲学者も、生きた時代に左右されているので、抽象的な議論を超えて自分の考え方で社会を見たときに色濃く社会的な制約を受ける。これ自体が、人間の認識は社会的な反映であることの証明にならざるをえないということを示している。社会的認識は、社会的存在の反映、社会的存在が社会的意識を規定する。というところから人は逃れられない。

そういうことを踏まえた上で、アリストテレスの善について、アリストテレスの考え方に沿って考えてみるのは面白い。人間にとって善とは何か。どうして世界は、時代の進展とともに民主主義が発展し、基本的人権が確立し、故人の尊厳が人権と民主主義の基礎になってきているのか。を解き明かしていくのは面白いといえる。
経済的な状況が、善に対する考え方をかなり左右してしまうことも見えてくる。同じ社会の中にあっても、格差と貧困が激しい社会であれば、人々の中の善に対する考え方にも大きな違いが生じてくる。

この相対的過剰人口の形成は、同じ可変資本量で同じ労働力量を過度に労働させ、成年労働を幼少年婦人労働によって、高級労働をより多くの低級労働によって駆逐する。そのことによって相対的過剰人口を生産過程の技術的変革よりももっと早く形成する。過剰人口は就業労働者の労働条件や賃金を圧迫する。こうして就業している現役労働者に比べ過剰人口の産業予備軍が大きくなり、貧困状態に置かれる過剰人口が増大し、受救貧民も増大する。資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然にする。富の蓄積に対し、労働者の側の貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積である。

マルクスは資本論で上記のように書いたが、これは現在の日本社会において色濃く現れている。同じ社会の中で善に対する感覚がどうして違ってくるのかを具体的に明らかにしていく上で、この規定はやはり力をもつと思われる。
自分にとっての善とは何か。人は自分の生きてきた人生の中で、それぞれの「善」を持って生きている。「善」を持たないで生きている人はいないのではないだろうか。善の追求が幸福につながるのであれば、個人にとっての善の形や考え方が違うのであれば、幸福の形も違ってくる。善という同じ言葉で語り合っても、人によって善の内実が違うのであれば、話は微妙に食い違う。この食い違いがいいのかも知れない。

個人の尊厳の尊重というものが、社会の基礎に座っているという社会、日本国憲法の第13条の既定が憲法の真髄だという日本は、国の原理として、個人の尊厳の尊重に基礎をおいた社会だと言えるだろう。それがどこまで現実のものとして実現しているのかを追求することには深い意味がある。
人によって善の内実が違うことを認めることは、個人の尊厳の尊重、つまり自由に善を選び取れる社会ということになる。人に生き方を押し付けない。自分で生き方を選択するという社会。日本もこういう方向に発展していくということだが、それは、人によって善の内実が違っていいという社会になる。

ただ、共通の土台というのはあるだろう。人によって殺人が善になるということを日本社会は認めない。それは、権利の相互尊重に反するからだ。人間と人間は対等平等に権利を持っている。自分が全てのことに対して自由があり、何をしてもいいということにならないのは、対等平等の権利とそれを相互に尊重するという原則があるからだ。

宗教が社会の土台に座っていない社会で、国民を統合する規範になっているのは、日本国憲法だろう。日本国憲法には、日本が到達した民主主義の原則が豊かにうたわれている。この憲法の原則を社会的な原則にして社会をつくっていけば、よりよい社会ができると思われる。日本国憲法を土台にして、個人が豊かに自分の善を追求していく自由、日本にはこういう自由があると思われる。

私にとって善とは何かを考えながら生きていくのはかなりいい。自分の人生を自分で生きる力になる。自分の人生論の根底に善を考えていく。この善というものは、自分の人生の中で変化するだろう。自分で自分の人生を選び取ろうとするときに、自分のとっての善とは何かを考えながら生きるだけで人生は豊かに、自覚的に生きることができるようになるのではないだろうか。

雑感

Posted by 東芝 弘明