「やさしい光」によせて

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朝、8時を過ぎたときに定期購読している「民主文学」の4月号に目がいき、巻頭に載っていた須藤みゆきさんの中編小説「やさしい光」を読み始めると止まらなくなった。
今日は、議会の委員会がないので、朝、少し時間がある。
5月の季節描写から始まるこの短編は、すぐにぼくの胸の内に染みこんできた。
8行目から次のような文章が続いていた。
 

「いつの間に季節が変わったんだろう?
 私は白を使わずに描かれた透明感のある絵のような、窓の外の風景を眺めながら思った。
 そういえば、今年はもくれんが咲いた事も、桜が咲いた事も、新緑が吹きはじめた事もなあんにも気付かなかったような気がする。
 おそらく私には、そういう事のひとつひとつに心を躍らせわくわくするには気持ちが混乱しすぎていて余裕がなかったのだろう。
 諸般の事情。
 いろいろな事が、私を混乱させていた。」


季節についてのこのような表現を読んでいると、何の脈絡もなく小林多喜二の党生活者の次の下りが思い出されてきた。

私にはちょんびりもの個人生活も残らなくなった。今では季節々々さえ、党生活のなかの一部でしかなくなった。四季の草花の眺めや青空や雨も、それは独立したものとして映らない。私は雨が降れば喜ぶ。然しそれは連絡に出掛けるのに傘(かさ)をさして行くので、顔を他人(ひと)に見られることが少ないからである。私は早く夏が行ってくれゝばいゝと考える。夏が嫌だからではない、夏が来れば着物が薄くなり、私の特徴のある身体つき[#「身体つき」に傍点](こんなものは犬にでも喰われろ!)がそのまま分るからである。早く冬がくれば、私は「さ、もう一年寿命が延びて、活動が出来るぞ!」と考えた。たゞ東京の冬は、明る過ぎるので都合が悪かったが。――然しこういう生活に入ってから、私は季節に対して無関心になったのではなくて、むしろ今迄少しも思いがけなかったような仕方で非常に鋭敏になっていた。それは一昨年刑務所にいたとき季節々々の移りかわりに殊の外鋭敏に感じたその仕方とハッキリちがっている。


「やさしい光」は、現代の地方都市を舞台にした話で、小林多喜二の党生活者とは、作品世界をまったく異にしている。しかし、この季節感に関わる描写には、深くつながるような感じがあった。
須藤みゆきさんの作品は、季節感の描写が作品の重要な位置を占めている。不安神経症と思われる、過呼吸の病状を抱え込んでいる深雪という26歳の主人公は、母ひとり、兄と自分という家族の中で育ち、連れ込みホテルの住み込み管理人という仕事で、必死に子どもたちを育てている母親の元で、住む家もまともにないような、貧困としかいいようのない境遇におかれていた女性である。
彼女は、苦しい生活から抜け出すためには、学習をつみ、キャリアを身につけるしかないという母親の信念のもとで息をつめるようにして暮らしてきた生い立ちをもっていた。作品は、母が突然亡くなり、学費のための奨学金返済と借金の返済を背負った主人公が、家賃2万円のアパートを探すところから始まっている。
家具がほとんどないアパートさえ引き払わなければならなかった理由は、彼女が3歳以降家を出てしまった父親に対して援助を求める連絡が地方の役場から届いたためだった。彼女は、この援助を拒否せず、月8万円の援助をするために2万円のアパートを探しに町に出た。
季節の移り変わりが、視野に入らないような目の前の諸般の事情に振り回されながら、ひっそりと生きている彼女に、条件付きで60過ぎの女性の大家さんが5万円の家賃のアパートを2万円で貸してあげるというところから物語は展開していく。
薬剤師の資格を持つ彼女は、薬局に勤めていたときに突然、薬の調合中に過呼吸症候群の発作に襲われ、それ以来、1日3回薬を飲み、発作を抑える生活を続けている。こういう症状をもちながらも仕事を続けなければ生活が成り立たない彼女は、卒業した大学の研究室の助手の募集に応募し採用される。
薬のせいでいつも倦怠感で体がだるく、発作が起こる不安が彼女を脅かしている。
家賃をまけてくれた大家さんが、彼女に出した条件は、医者になる国家試験を通らず、浪人状態で引きこもっている息子と夜1時間散歩をしていただくという事だった。
彼女は、きっかり1時間、まったく言葉もかわさずに大家さんの息子と夜、散歩をすることになる。
季節の変化については、その散歩の中にくり返し描かれている。
読み進んでいくと、次第に彼女が季節の変化を心に染みこませ、受け入れ感じていく様が描かれている。大家さんの息子の大沢君と彼女は、同い年の26歳だった。まったく言葉を交わさないで、しかも彼がゆっくり歩くあとを離れて歩いていただけの散歩のときに彼女は発作に襲われ立ち止まってしまう。もっていた薬から大沢君は、彼女がどのような発作を抱えているかを理解して、会話を交わすように変化し、夜の散歩は並んで歩くように変化していく。
「あの子を救ってほしいのよ」
大家さんからいつも最後に聞かされる言葉に対し、彼女は、次第に、「私があなたを救うから、あなたは私を救ってくれる?」という気持ちになってくる。いつしか彼女は、大沢君に自分の母親の事、家族の事、どのような生活を送ってきたのかを話すようになっていく。
小説は、雪の降る夜、散歩をしていたときに発作に襲われた彼女が大沢君に抱かれて、次第に発作から回復していくところで終わっている。
今の日本という社会は、やさしい、感受性の豊かな人間には過酷すぎて、社会からはじかれてしまうのかも知れない。
「そんなヤワな事でどうする。しっかりしてよ。自立してがんばるしかないよ」
こんな言葉や気持ちになったりするが、ぼくたちは、それぞれの人の歩みをどれだけ知っているだろうか。ギリギリのところでがんばってきて、壊れてしまった人々に対して、「依存するな、自立しろ」というのは、過酷すぎるのではなかろうか。
テレビは、ものすごい情報量で、さまざまな事件のひだにまで入り込んで、描きコメントを添えて報道している。しかし、報道合戦の中で、わっと押し寄せ嵐のようにまくしたてるようなやり方で、どれだけ本当の事を伝えられるというのだろう。当事者の苦しみは、機関銃のようにはき出される質問の中からはつかめない。それは、カウンセラーのように、その人の中からしみ出すようにして出てくる言葉に耳をかたむける事でしか明らかにならない。そう思う。
私たちは、テレビの見方を通じて物事を分かっているかのように錯覚している。劇場のように描かれる話の中には、事実のねじ曲げがたくさん含まれているのに、そのことに気付かず、テレビ的な見方で目の前に起こった出来事も短絡的に理解しようとする。
本当の文学作品が、売れなくなり、文学はエンターテインメントが中心になっているが、文学の最大のテーマは、人間がどのような思いで生活しているのか、生きているのかを問うことだろうと思う。
作品を読み、自分の人生を顧みて、人間への信頼や希望がもてるような感想を積み重ねていかないと、人間を見る視点が次第に乾いてきて殺伐としてくるように思う。
ぼくは、「やさしい光」のような作品を読んで、少しでも他人に向ける目に深さと広がりをもちたいと感じた。想像力や理解力がやせ細って、テレビ報道にあるような殺伐とした視点だけになってしまったら、大切な真実を見落としてしまう。
やさしい、ナイーブな感性を持った人間が、素直に生きられない世の中に対する憤り。このような感覚と感情を絶えず確認できるように文学作品を読みたい──そんな風にも思う。
今日読んだ作品は、続編を読みたいという思いを抱かせてくれるものだった。
人間の再生のきざししか描かれていない作品だったが、舞い落ちる雪の中で支え合う彼と彼女に未来があるような感じを持たせてくれるものだった。
季節の変化を感じ取りはじめた主人公の深雪さんを抱きとめた大沢君の体は温かかっただろうなと思う。
人と人との再生は、人と人との交流の中にある。

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Posted by 東芝 弘明