何度目かの具体と抽象
朝配達が終わって5時に事務所に行き、会議の準備をした。こういう日が何日あっただろうか。毎日綱渡りのように朝の時間を活用している。自分の頭で考えて、文章を書いているが、忘れてはならないのは、現実との関係だ。脳は、考え込んでいくと事実から乖離することがある。主観が勝ってしまうのだ。そうならないためには、たえず現実の事実に基づいて具体的に考えて、具体的に対応することだ。現実はどこまで行っても具体的であり、具体的なものを離れた現実はない。この具体的なもの午後との中に分け入っていくためには、抽象的な思考が必要になる。
具体的な現実を把握するためには抽象的な思考が求められる。抽象力は、具体的現実に分け入っていく羅針盤の役割を果たす。ただ抽象力は思考の中の産物でもあるから、具体的な現実から離れてしまう可能性がある。具体的現実を認識する人間が、頭の中で勝手に具体的現実を作り上げ、そこに抽象的思考を働かせると、結局は妄想×妄想となって現実から乖離する。
全ての人の思考は、現実から乖離する危険性をたえず持っている。人間の思考は、外界からの刺激を受けた反応なので、思考そのものが、外界という現実から得た主観に過ぎない。客観的な思考というのは現実にはあり得ない。自分の思考が、客観からの反映であることを十分知った上で、現実と抽象との関係を理解し、たえず現実把握を行いながら、抽象的思考を羅針盤にして現実の海を航海するのいがいい。
自然には法則性がある。法則性があるのでこの法則性を土台にして組み立っている現実にも物質の統一性は貫かれている。荒々しい波のように見えるかもしれない現実にも法則性は貫徹されている。それは、統計学的な傾向にはとどまらない。こういう物質の統一性を知った上で、具体的現実に向き合うのがいい。全ての物事はランダムに存在しているのであれば、人間は現実把握さえままならないだろう。物質の統一性を成り立たせている法則性があるからこそ、複雑そうに見える現実を人間は把握することができる。こういう土台の上で具体的なものと抽象的なものの関係が成り立っている。
やっぱり、事実を読み解くためには哲学が必要だ。









ディスカッション
コメント一覧
具体と抽象ですか。
作家の吉行淳之介は
「夢の中でステーキを食べたら、それは現実に食べたのと同じ事なのである」
と書いていましたが、俺はふむふむ成程なあ、と感心しました。夢の中で絶世の美女とやったのならそれは現実にやったのと同じなのだとも書いていましたね。
これなど、ユング派に代表されそうな思考ですが、夢からのヒントは現実の予知的な学習であるというのがユングの主張です。
まあ、そういう考え方もあるという事ですね。起きているときだけが具体と抽象の思考ではないという事です。
その中で哲学が必要だという事ですね。
ちょっと返信。人間の脳は、本人が思っている以上に潜在意識下で情報を処理しているようです。脳の中で意識に上ってくるのはごく一部。意識と思っているものも、そのほとんどは脳による外的な刺激に対する反応・処理だと思います。意識はは、氷山のように脳の働きのごく一部、多くの刺激に対する反応や情報の処理は、意識の水面下で無意識のまま処理されているということのようです。自分で意識しているように思っていますが、そのほとんどは、毎日同じことの繰り返しのなかでの反応だといいます。
引っ越しをして、前の家よりも箱として家が大きくなったときに、照明のスイッチと日常生活の間隔が違っていたので、かなりストレスを覚えたことがあります。手を伸ばしても、スイッチにあと数10センチ届かないということで。外界に対する能動的な反応も含め、人間の意識への反射は、こういう日常の細かな積み重ねの中で起こっていることであり、その上に人間の意識があります。
会話が典型的です。相手の言葉に対して瞬時に反応しています。それで会話が成り立っています。日常生活上の会話はすべてアドリブです。この難しいことを、多くの人は実行しています。それは、潜在意識下で人間の脳が瞬時に判断しているからです。ときどき、言い過ぎることがありますよね。なんであんなことを言ってしまったんだろうと。これは、人間が意識する前に脳が反応しているということでもあります。
睡眠は、前の日の出来事を反芻して整理し、記憶に定着させているようです。脳科学者は、さまざまな具体的実験を毎日行っており、研究成果を全世界で共有しているようなので、すこしずつ具体的なことが分かってきています。物事の理解を深めようと思ったら日常的な努力が必要です。一夜漬けよりも毎日の努力が大事だといいます。その日常的な努力の上で、理解の飛躍、ブレイクスルーを実現したければ、眠ることが大事だということです。この話は、ちょっとだけwaoさんの夢と現実に引っかかっているような気がします。
脳の反応は、外界からの刺激に対する反応が多くを占めていますが、人間の体全てを脳がコントロールをしている訳ではないので、バランスが崩れることも多いのです。人間の皮膚は、ゼロ番目の脳だと言われており、皮膚そのものに色を識別できる物質があって、赤と青を皮膚そのものが識別しているし、人間の耳には聞こえない音も皮膚が反応して「聞き分けている」ようです。何らかの原因で反応の仕方のバランスが崩れたら、脳による反応もおかしくなります。うつ病などもバランスが崩れた状態だと思います。バランスの崩れによって、夢と現実の区別が付かなくなって混乱することも多々あると思います。
ちょっと違いますね。
夢と現実の区別がつかなくなって混乱するという事は病的な状態で、うつ病ではなく統合失調症ですね。ヘドロンのような。
俺が言っているのはあくまでユング的な夢の中で予知的な学習にあるという点と、吉行淳之介が書いている、
「夢でステーキを食べたのなら、それは現実にステーキを実際に食べた事と同じなのだ」
という事に尽きるのであり、実際、東芝さんはこの世は夢かも知れないと思われた事はないですか?
俺はあると思うんですよね。仮にこの世は夢であり、死んだら実態があるかも知れないとは思われませんか?
なにをもって現実と夢を区別するのですか? 脳の話ではありません。
この点では無神論者であり、唯脳論者である東芝さんとは話が交わるとは思いませんが、俺はこの世は夢であると思って生きています。
人はどんなにあがいても、死から逃れる事は出来ず、貴方も俺もいつか死にます。
我々が生きていられる時間はおよそ20年ぐらいで、その間悟りも開けずもがいて1人で死んでいかなければなりません。その時の意識はどの様なものでしょうか。
立花隆の「臨死体験」を俺は読んだがそこには共通した現象があります。よかったら暇なときでも読んでみて下さい。かなり科学的に分析してあります。価値のある本だと思いまよ。
話は変わりますが、コメントを入れる際、いちいち名前とメールを打ち込まないとコメント出来ないのには辟易しています。どうにかなりませんか?
あとですね、同じく立花隆の「脳死」という本も合わせて読んでみたらいいですよ。東芝さんの認識も相当変わるんじゃないかと思います。
俺は基本的に有神論者で唯心論者です。
ですからこの世はうたたかの世で、俺は酒も飲むし、煙草も喫みます。女とも遊びます。麻雀もするし、パチンコもします。
そして
「神よ許したまえ」
と心で祈ります。そしてまた同じ事を繰り返すのです。
俺は子供の頃から、「死」というものを考え続けていました。そして、何故この世は「存在」するのかという事を考え続けていたのです。然るにそれは無駄な事だと悟りました。なぜなら「あの世があるから、この世が存在するのではないか?」とふと気づいたのです。その境地に至ったのはあらゆる「本」を読み漁ったからでしょう。「本」というものは本当に良いものです。1万冊以上読んできたでしょうか。それは俺の子供時代の不幸な環境もあったのですが、これも小学生の低学年の頃でしょうか、
「酔生夢死」
という言葉を発見しました。1度きりの人生ならば自分の好きなように生きればいいのだという境地に至ったのです。今もその考えに変わりはありません。
俺は「木枯し紋次郎」が大好きで、三度笠をかぶり、高楊枝を銜えて旅する紋次郎が道中、駕籠かきに乗った女の分限者が山賊に襲われているところに遭遇し、駕籠からまろびつつ出てきた女が、
「もし、旅のお方、お助け下さいまし!」
と助けを求めると、紋次郎は、
「あっしには関わり合いのないこってす」
と言ってすたこらと行ってしまい、女は山賊に切り殺されてしまいました。
宿場町に着いた紋次郎は丁半博打で稼いだ金で暮らす渡世人なのだが、その町の親分の子分といざこざを起こし、やはり、切りあいになるんですね。その子分が、紋次郎に切られ、死に際に、
「やい、紋次郎、てめえ、いずれおめえも畳の上では死ねない定めよ、ふはははは」
と笑い投げたら、紋次郎は
「その時はその時でござんす。あっしがどこで死のうが道端でのたれ死のうがあっしの勝手でござんす、おめえさんには何の関わり合いのないこって」
と言って去っていくのです。哲学です。
俺は1冊の哲学書を読むより、「木枯し紋次郎」を見たほうが良いと思った。名作ですね。
人間ここまで悟って生きている人は、はたしてどれぐらいいるでしょうか。俺は全くいないとは思わないんですよね。
現にここに一人いますから。一人はいる。
こういう事を脳科学でどうやって説明するのでしょうか。
「切られる」という言葉は、「斬られる」という言葉に訂正します。
物書きを目指していた俺にとっては恥ずかしい間違いです。
まあ、具体と抽象というテーマから外れる事ですが、
東芝さんとか共産党の人にききたいんですけども、
「死んだら無になる」
という事をよく聞くんですよ。俺の友人でTという人がいるんですけど、バリバリの共産党員です。彼が人は死んだら無になるのだ、という訳です。そこで俺は
「何もない、無とはなんですか、どういう状態なんですか?」
と聞くと、
「何も無いという事は何も無いという事だ」
と言う訳です。そこで俺は無とは何もないという返事では、リンゴとは何ですか、と聞くのと一緒で、リンゴという物はリンゴだ、と言ってるのと一緒ではないか、と答える訳です。
東芝さんにお尋ねします。「無」とはなんですか?
テーマからはず外れると書きましたが
「具体と抽象」の究極的な質問でもあると思うのですが。
小説家になるののを諦めてはや10年、文章が下手になったなあ!
自然科学でいう無とは、物質もエネルギーもない状態です。つまり時間も空間も物質もエネルギーもない状態ということになります。時間というのは、物質の運動の仕方です。空間というのは、物質の存在の在り方です。AとBという2つの物質ができてはじめて空間ができるということです。物質の運動、変化が時間をはかる物差しになるということです。自然科学でいう無は、空っぽな空間ではないので、かなり奥の深いものだと思います。
死んだら無になるというのは、正確ではないですね。人間という個体が生命体として終わったら急速に腐敗し分解していきます。したがって、生物という形が解体して、他のものに転化していくということだと思います。現代は、火葬しますから炭素として燃焼して、面積の小さい灰になってしまいますが、無になることはありません。
輪廻転生というのは、人間が人間に転生するのではなくて、物質の転移と変化のことだと思います。人間中心の世界が全てではなく、地球という世界での変化は、全ての物質の連関の中で起こっていることです。人類の誕生と衰退もそれは最初からすべて織り込み済みの変化だとは思います。
生まれてきた理由はないと思います。自分の生を意味のあるものにするかどうかは、自分の生き方しだいだと思います。意味のない生を意味あるものにするかどうかは、かなり主観的なものだとは思いますが、生きて学んでいく中で、自分の生の意味を後天的に理解して、懸命に生きるのがいいと思います。
「自然科学でいう無とは、物質もエネルギーもない状態です」
繰り返しになりますが、それが、俺の友人のTが、
「リンゴというものはリンゴという物だ」
と言ったのと一緒ではないですか? と言いたいのです。なんの説明にもなっていない。無とはなにか、
「自然科学でいう無とは、物質もエネルギーもない状態です」
という答えではダメですよ。
「自然科学でいう無とは、物質もエネルギーもない状態です」
という文章の中に中に「ない」という言葉が入ってるでしょう?
だから俺の友人Tが言ったのと違わないと言っているのです。
こんな事が分からんとは、唯物論も怪しいですね。
「ない」「無」
という事を唯物論で解き明かす事は出来ません。最終的に
「それは不可知論で話題にする事自体おかしい」
という事です。
俺は違います。唯物論者ではないので説明できます。
先ず、無についてだが、
無については、無があるという立場と
無は何もないということだ、という立場があります。
無があるというのは、仏教で、無の境地というのは「無」があることになる。
無はない事だ、というのは、無は非存在という事になる。
然し非存在をいうためには「在る」がが必要であり、
無というのは、あるを欠いているいる形だ。すなわち、無はあくまでも「無」であり、有、すなわち在りはあくまで在りになる。
つまり無と在りは相関関係になってしまうのですよ。
このような無と在りの関係を考えるのが
「存在論」
となります。
また次に哲学には認識論があります。有名なカントが確立しました。
人は真理をいかにして対象を知る事(認識)できるか。
というのである。これはカントは人間が事柄を本当に認識するにはものという現象の「背後」に、物自体というのがあって、人間はこれを知る時に、本当に事柄を知ることになるとしたのである。然し物自体は人間は認識できないとした。
人間の認識には、人間が知る事の出来るカテゴリーがあって、これによって、人間は知るのではないか? と言っている。
東芝さんもふれていた、カテゴリーには時間とか空間とかの認識ですね。
有名な、「対象に認識が従うんじゃなく、認識に対象が従っている」という発見です。まあ、簡単に言えば、それは温度のセンサーがあるから温度が分かり、光センサーがあるから光が分かるというセンサーによって認識が変わるという事です。
現代の存在論はやはり、黒い森の哲学者と言われたハイデガーであり、(俺はハイデガーの上中下大著の20世紀最大の哲学者書と言われる、『存在と時間』は2度読んだ)認識論は、カントがまとめたと言われている。
然しこれらの根っこは、プラトンやアリストテレスにある。
東芝さんは先ず、「認識論と存在論」というような教科書的な本を読まれて、
全体をつかまれ、そして、具体的には、カントのプロレゴメナや
ハイデガーの「存在と時間」とか、読まれたら、大枠が
つかめるかと思のだけれども。読んで下さい。そして又議論しましょう。
意外とプラトンのゴルギアスとかが、ぴんと来られる かもしれませんね。え? もう読んだ?こりゃ失礼。
池田晶子なんかも東芝さんの 感覚に合うかも知れん。この人は存在論の方です。 ヘーゲルを日本語で解説した人です。
東芝さんは哲学の感覚があるので、
ぜひ、まず「認識論と存在論」というような教科書的な本を読まれて、
全体をつかまれ、そして具体的には、カントのプロレゴメナや
ハイデガーの「存在と時間」とか、読まれたら、大枠が つかめるかと思います。筒井康隆の「文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー」を読んでから「存在と時間」を読めば楽して読めます。その中に答えが書いてあります。
21世紀の最大の思想家である、西部邁は自殺しましたね。
然も公然と、いつまでに死ぬと言ってそれを実行した訳です。
なんでこんな事を書くかというと、20世紀最大の思想家であるハイデガーも
「存在と時間」の中で自殺を薦めているのですよ。
それでハイデガーは「黒い森の哲学者」と呼ばれている訳です。
文明が発達しすぎると「死にたくても死ねない」という事が問題になってくる。現に俺の母親は今、危篤状態で3月5日(金)に危篤になり、意識もなく、ただ集中治療室でチューブにつながってるだけで酸素吸入器で息をしているだけ、という状態です。余命1週間から2週間といわれたのがもう4週間になろうとしている。自分で自殺しようと思ってもそれができないのです。
看病する方も大変ですよ。
本音は
「はよ、死んでくれんかなあ」と。家族をいつまで苦しめればいいのだ、と言いたい訳です。こっちも疲れがピークです。西部邁もハイデガーもそういう目にあったのかも知れない。特に西部は自分の病気がひどかったからねえ。先手を打ったのでしょう。西部邁ほどの男が、ハイデガーを読んでない訳ない。
筒井康隆を少年が読んで,人殺しをしたと、子供に筒井康隆を読ませたからだ、と世間が騒いだ事件があったんですよ。特に母親連中が騒いだ訳です。筒井康隆は
「そんなら、子供に筒井の本は読ますなと、母親連中に言いたいですね」
とコメントしています。
全くその通りで、筒井康隆に非はない。感受性が異常に強かった少年自身の問題だ。
こういう場合、自殺とか、人殺しとか(ドストエフスキー的)そういうものは何なのだろうと思いますね。
例えば、東芝さんだって車に乗ってるんだから、不注意で人を轢き殺す事も在り得るんであって、不注意だろうが何だろうが、そういう場合、「人殺し」ですよね。人を殺したんです。これはドストエフスキーの時代と違って、文明が車なんてものを作ったからです。
俺は東芝さんの昔のブログに、世界はスローライフの世界を構築してゆくのが良いと書いた覚えがあります。東芝さんは最近、手書きの手紙を書いた事はありますか? 無いと思うんですよね。携帯電話、メール、じゃないですか?年賀状があると言っても、パソコンを駆使してプリンターから大量に作っているんじゃないですか?
はあ、もう俺疲れた。死んでしまいたい。今から、城山墓地の木にロープひっかけて首吊りにでも行こうかな。
wao君、訳の分からん論理展開やってたのね。宇宙はある一点から始まったというのが現在の物理学の常識です。その始まり以前は、当然何もありません。
それだけです。簡単だろう?そう考えられないところがダメなのよ。
始まり以前に何があるか?・・・・分かるわけないだろう。始まりがあってその結果として存在する人類が、その始まり以前を理解することはできない。
東京大学のホームページにあった記事です。
ほとんど引用なので申し訳ないですが、こういうことだと思います。
見えてきた「宇宙のはじまり」
ビッグバン直前の一瞬を説く「インフレーション理論」
宇宙のはじまりは138億年前。超高温・超高密度の火の玉「ビッグバン」の急膨張により誕生したとされています。では、ビッグバンはどうやって起きたのでしょうか。その謎の答えだとされているのが、ビッグバン直前の”宇宙のはじまりの瞬間”をとらえた「インフレーション理論」です。
ビッグバン以降は膨張が緩やかになり、徐々に温度も下がっていきます。ビッグバンからおよそ38万年後より前までの宇宙ではまだ高温で光も直進できないため、現在の私たちまで光は届かず観測することができません。しかし「宇宙の晴れ上がり」と呼ばれる38万年後からは温度が下がり光は直進できるようになり、現在の私たちまで光が届くようになります。このときの光が宇宙背景放射です。
1981年に東京大学の佐藤勝彦名誉教授(現・自然科学研究機構長)が発表したインフレーション理論は、宇宙誕生の10-36秒後から10-34秒後という超短時間に、極小だった宇宙が急膨張し、その際に放出された熱エネルギーがビッグバンの火の玉になったと説明する理論。米国のアラン・グースが、ほぼ同時期に同じような理論を提唱しています。
インフレーション瞬間の膨張速度は、シャンパンの泡1粒が、光速より速い、一瞬のうちに太陽系以上の大きさになるほど急速です。その爆発的な膨張速度から、佐藤名誉教授は「指数関数的膨張モデル」と名付けました。
「素粒子物理の理論で宇宙のはじまりを説明したかった」と当時を振り返ります。
真空エネルギーと相転移
素粒子物理学では何もない空間、「真空」にも水が氷に変わる(相転移)ように高いエネルギーを持った真空が低いエネルギーの真空に相転移をするとしています。インフレーション理論は、誕生直後の宇宙は真空のエネルギーが高く、これに互いに押し合う力(斥力)が働いて宇宙は急激に膨張すると説明します。真空のエネルギーに満ちた空間は互いに押し合うことをアインシュタインの相対性理論が示しているからです。急激に膨張した宇宙では相転移がおこり、水が氷に変わるときに熱が放出されるにように真空のエネルギーも相転移によって膨大な熱エネルギーを放ち、この熱によって宇宙は超高温の火の玉(ビッグバン)になったのです(図1)。
インフレーションの証拠を求めて
インフレーションからの重力波の痕跡だとされる、「Bモード」と呼ばれるねじれた渦巻きパターンが宇宙背景放射に現れると考えられている。
インフレーション理論は正しいのか。その証拠を見つけようとする観測研究が活発化していきます。
NASAが打ち上げたCOBE衛星やWMAP衛星の観測によって、2000年代にはインフレーション理論の予測と一致する結果が得られました。これによって、インフレーション理論はビッグバンを裏付ける、宇宙誕生のストーリーとして広く認められることになりました。「観測データがインフレーション理論からの予言と見事なほどに一致しているのを見たときは、本当に感動しました」と、佐藤名誉教授は今も興奮冷めやらぬ様子です。
インフレーションの証拠となる重力波
しかしインフレーション理論の決定的な証拠はまだ見つかっていません。インフレーションほどの急膨張であれば、巨大な星の爆発など、質量を持った物体が運動するときに生じる時空の歪みを光速で伝える「重力波」が生じるはずです。しかし、地球に届く重力波は極めて微弱で、直接の観測は困難です。
理論的には、観測できる最古の光だとされる「宇宙背景放射」に現れた特殊なパターン(模様)から、間接的に「インフレーションの痕跡」を見つけ出すことができると考えられています。宇宙誕生のときに発生した重力波が宇宙背景放射にぶつかり、そこに独特の渦巻き模様を作り出しているはずだというのです(図2)。渦巻き模様が見つかれば、強力なインフレーションの証拠となります。
世界では、この痕跡を探そうという観測プロジェクトが10以上もあります。米国ハーバード大学などが南極に設置した望遠鏡「BICEP2」で地上から観測を行う一方、欧州宇宙機関(ESA)が打ち上げた「プランク衛星」は宇宙から観測(全天調査)。日本でも、東京大学や高エネルギー加速器研究機構が中心となって観測に取り組んでいます(図3)。
「重力波の痕跡にはインフレーションのメカニズムに関する重要なインフォメーションが含まれているはずで、未知とされるダークエネルギーについての知見を得るきっかけにもなるかもしれません。超弦理論の裏付けになる可能性もあります。また将来的には、直接重力波を観測できるかもしれません」と、目を輝かせる佐藤名誉教授。インフレーションからダークエネルギー、その先の究極の理論まで。宇宙への思いは、時を経てもなお衰えることはないようです。
(取材・文:牛島美笛)
宇宙の始まりがインフレーション論のとおりだとすれば、ではそれ以前はどんな状態だったのかということにも、答える必要が出てきます。宇宙の始まりが、ものすごい勢いでの膨張にあったとすれば、この状態がずっと続いていたとは考えられないので、宇宙の誕生以前については次のような説が生まれるということです。
宇宙の始まりについて、ある説では、宇宙は「無」から生まれたとしています。「無」とは、物質も空間も、時間さえもない状態。しかしそこでは、ごく小さ な宇宙が生まれては消えており、そのひとつが何らかの原因で消えずに成長したのが、私たちの宇宙だというのです。また生まれたての宇宙では、時間や空間 の次元の数も、いまとは違っていた可能性があります。ある説によれば、宇宙は最初は11次元で、やがて余分な次元が小さくなり、空間の3次元と時間の1次 元だけが残ったのだといいます。宇宙の始まりは、まだ多くの謎につつまれています。それを解き明かしていくのは、いまこれを読んでいるあなたかもしれま せん。(国立天文台のホームページより)
空間は、物質と物質の距離のことです。3つ物質があれば、3次元空間ができます。時間の方は物質の運動の仕方によって規定されるということです。光速、つまり秒速30万キロメートルが物質の最高の速さだと言われています。物質が高速に近づくと時間がゆっくり経過するようになるというのが、アインシュタインの論理でした。これは観測で事実であることが確認されています。
時間も空間もない、物質もエナルギーもない状態が物理学のいう「無」です。これを作り出すことはできないと思います。しかし、宇宙の始まりは「無」だったという説があります。現在の科学の到達点では、この説を否定できないのではないかと思っています。
物理学が定義している「無」は、全ての哲学者の論理を超えていると思います。同時に物理学が明らかにした「無」という概念は、唯物論のひとつの帰結なのだと思います。でも物質と精神では物質が根源的だという唯物論からして、宇宙は「無」から始まったというのは、ある種、パラドックスみたいな感じです。
インフレーション理論と、ダークマターの件は以前俺が述べたじゃないですか。
では、インフレーションの前の世界はどうなのかとか。
俺の記憶では、インフレーション理論ではビッグバンの前に10のマイナス43乗の時間でビッグバンに到達され、インフレーション理論の前の段階はトンネル効果で極微小な穴を通って1/fの揺らぎの世界があって、その別次元の宇宙はボコボコと無数の宇宙の卵が存在する、と。
この理論が正解ならば、「無」というものは存在しなくなるという事です。
ただねえ、研究でここまで解明されるとは思わない。これはあくまで理論であって、観測される訳ないじゃないの。そんな事はない。机上の理論であって証明する事は無理です。
10のマイナス43乗秒の時間でビッグバンに到達したそのビッグバンが宇宙を造った、というのは無から宇宙ができたのではなく、ではその以前がなくてはならない訳で、それがインフレーション理論な訳です。では、インフレーション理論の前がなくてはなりません。それがトンネル効果で極小さな穴があってその向こう側が1/fの揺らぎの世界というものです。この事は実は昔からマンガなどで描かれていたパラレルワールドというもので、世界の知見がSFにやっとこさ追いついたという事になり、何だか筒井康隆なんかが喜びそうな話ですね。ここ最近色んな科学的知見がSFに追いついてきたという感じです。例えば、車の自動運転などとか、携帯電話とか、などです。面白いですね。
ただ、人間は死んだら「無」になるのかとかいう話とは全然関係なく、その理論でも「無」とは何か? という話は解決しません。俺は唯物論的に人間は死んだら「無」になるというTという友人に「無」とは何ですか? と問うただけであって、唯物論者とか、共産党の党員の方々が「無」になるのだ、というから、違和感を感じるのです。みな、一様に「無」だという訳です。
例外的にクリスチャンで共産党党員という人がいるらしくて、その人とこういうやり取りをしてみたいですね。別の世界が見えてくるかも知れません。
東芝さん、この現象的な世界と唯心論的な話となんか、突き詰めるとどこかで繋がるかも知れないという気が俺はなんとなく、予感としてあるんですよ。実証実験も大事ですけど、観念的に思考する作業は面白いですね。「宇宙はある一点から始まった」とかいうバカと違って、こうして東芝さんとこの「無」という概念を探求する事は刺激的で面白いですよ。俺はこういう話に真面目に対応してくださる東芝さんに感謝を申し上げます。今、俺はおふくろが危篤状態でそっちの方面もやっておるので時間が足りません。また今度、じっくりとやる機会を持ちたいと思います。ありがとうございます。
知的な遊びは面白いですね。今度はダークマターをやりましょうよ。実はダークマターの事は中学生の時、本屋で見つけて、立ち読みした事があるんです。ですから古くから知っていました。ダークマターは面白いですね。
自然科学は面白いですよ。waoさんのいうインフレーションの前は、無の状態だったということです。インフレーションにしてもその後のビッグバンにしても、強烈な運動とエネルギーをもっています。インフレーションの前がインフレーションと同じだったということにはならない。「10のマイナス43乗秒の時間で」ビッグバンに到達したので、ではそれ以前はどうだったのか。ということになります。
無から宇宙が生じたというのは、理論的な帰結として、無から宇宙が生じたと考えられるという、論理的な思考の一つの帰結ですね。では無とは何か。
物理学なので、物質が存在して初めて時間と空間ができるので、物質もエネルギーもない=時間も空間もないというのが無だということになります。でも自然科学はここで止まりません。では、無とは何か。今の物質を構成しているような物質はなかったけれど、という考え方も出てきます。膨大なエネルギーをともなったインフレーションとビッグバンが起こったとすれば、……ということで説明不可能なものが残るので、宇宙はダークエネルギーで満ちていなければ、説明がつかないという説にもつながるようです。ではダークエネルギーとは何か。それは、そう呼ばれているだけでその正体は明らかになっていません。
生命科学の方も面白いです。人間の細胞は、たえず細胞分裂をものすごいスピードで繰り返しています。そうやって細胞を再生していますが、細胞分裂はかならずイレギュラーを起こし、細胞のコピーに失敗して細胞は癌化するといいます。従って癌化は避けられないようです。それを抑える働きをするのがテロメアという物質のようで、テロメア細胞の両端が縮んでいくと、細胞分裂の速度が衰えるようです。この動きと個体の寿命とは深くつながっているのだといいます。しかし、テロメアの両先端が短くならない部署が体の中にあり、それは、生殖細胞だというのです。生殖細胞は劣化しないで細胞分裂を繰り返すようです。有性生殖によって、生殖細胞が自分の子どもに受け継がれていくので、いわば生殖細胞は不死だといいます。もちろん子どもを作らなければ、そこで生命の連鎖は止まってしまいますが。
死んだら無になるというのは、こういう生命科学からいえば、違うということですね。個体は死滅するが、細胞レベルでも生命は受け継がれていくので、完全に無になることはないのだということです。
う~む、10のマイナス43乗秒のインフレーションの前がどうだったかですね。
俺の記憶ではトンネル効果というものがあって、極微小な穴を通って1/fの揺らぎの世界が存在すると言うのですよ。その世界では無数の宇宙がボコボコと生まれていて、我々が住むこの宇宙もその一つなのであれば、「無」というものは無いという事になるんじゃないですか? トンネル効果というものが本当なら、というか、インフレーションの前がなければ辻褄が合わなくなるんですが、トンネル効果で異次元の宇宙が存在するのならば、時間も空間も無いというのは理屈に合いません。無というのが存在しなくなるのです。過去においても未来においても。つまり時間は永遠にオメガでありアルファである事が出来なくなる。つまり、時間は永久に始まりがなく終わりもない。概念的にこれを直観する事は人間にはできません。面白いですね。面白い。
そういう話と人間は死んだら無になるのか? という話はまた次元の違う話であると思いますよ。
俺は人間死んだら魂が残るのではないかと思います。立花隆の「臨死体験」を是非読んでもらいたいものですね。共産党が嫌う立花隆ですが、食わず嫌いではダメですよ。東芝さんはまだ「坂の上の雲」も本棚でほこりを被って死蔵してるんじゃありませんか? 俺の友人のTは「新編社会科学辞典」の中に西郷隆盛を征韓論で朝鮮侵略を企てた者と解説しているので、鹿児島県人なのに、西郷隆盛が嫌いだというのです。俺はこういう教条主義的な人間が好きになれません。話がずれてきましたが、俺はこういう人間を「かたパン」と呼んでいます。そうではないんではないか、という視点がないのです。人間は「やわらかパン」でなければならない。その点、東芝さんは共産党の中においても特異な存在です。俺は東芝さんは「やわらかパン」だな、と思います。つまり党員であっても、それは違うのではないか? という複眼的な視点を持つ、という事ですね。
ダークマターは観測不可能だという事なのだが、理論上この我々の宇宙の質量が4%しかなく、残り96パーセントがダークマターで満ちているという事が机上の計算で確かめられている。これは驚きだが、しかし繰り返しになるが観測不可能な訳です。予感としてはこれが、解明されれば「無」とは何かという事に繋がるかも知れないですね。面白いですね。
「アルファでありオメガである」に訂正します。
waoさんの議論とかみ合ってきました。そんなにかけ離れた議論にはなっていない感じですね。死んだら無になるという党員の言い方は、正確でないと思います。唯物論の立場でいえば、そんな結論にはならないかと思います。
立花隆さんの臨死体験の本は読んでいませんが、大学での特別講義を本にしたものは過去に読みました。内容はかなり忘れましたが、面白かったという記憶があります。臨死体験について、最近得た知見では、心臓と肺が完全に止まり、死が確認されても脳は、活性化の道をたどるようです。心配が停止すると、脳内は一種の興奮状態になって幸せホルモンと呼ばれるオキシトシンが分泌されるようです。心肺停止の状態から蘇生した人々の多くは、「臨死体験」を得るようです。その内30%は幸福感に満たされたことを語るようです。唯物論でいえば、こういう感情は、心肺停止後の脳の変化によって引き起こされているということでした。
唯物論でいえば、また違った表現ができます。30%というのは「臨死体験」という本を読めばちょっと違う。立花隆の本(上下2巻ハードカバー900ページ程ある)は、緻密にあらゆる科学者に問い「臨死体験」が語られている。立花隆も唯物論者なので、訳の分からんものは唯物論的にアプローチしてゆく。論理を突き詰めてゆくのである。
ちょっと、「臨死体験」の最後のところだけ引用してみよう。
前に臨死体験の二つの解釈は、結局のところ、すべてが物質的に説明できるとする一元論と物質界と別に精神界があるとする二元論のふたつの哲学、二つの世界観の違いに帰着すると述べたが話は結局そこに戻るのである。
科学は未だプリミティブ
では、私はどう考えているのかというと、先に書いたように、基本的には、脳内現象説に立っている。つまり、基本的には、物質一元論で、この世界は説明できるだろうという科学的世界観の側に立っている。
しかし一方で、本当にそうだろうかという懐疑心も常にもっている。
科学というのは、まだあまりにもプリミティブな発展段階にある。科学をよく知らない人は、現代科学が達成した華麗な業績の数々にただ目を奪われているばかりだが、私は最近サイエンス関係の取材が多いので特によくわかるのだが、科学はまだ知らないことばかりなのである。科学は自然の謎を解くことに挑戦し続けてきたが、解かれた謎はほんの一部で、大部分はまだ依然として謎のままに残っている。
かつてニュートンは、自分の科学的業績がいかにちっぽけなものであるかをたとえて、自分は、真理の大海を前にして砂浜で砂遊びをしている幼児のようなものに過ぎないと述べたが、ニュートン以後の科学にしても、それと五十歩百歩である。科学はまだ砂浜の一部しか視野に入れていないのである。真理の大海はその向こうに無限の彼方まで広がっている。
特に、この臨死体験の問題がからむような、生命科学、脳科学、あるいは人間の意識、心理がからむような問題になってくると、科学はほとんど何もわかっていないのに等しいといってよい。
脳科学を例にとれば、部分的にはいろいろ面白いことがわかりつつあるが、それはいずれも、視覚系なら視覚系といったサブシステムを構成する、さらに下位のシステム(色の認識機構とか形の認識機構といったもの)の部分的な構成原理がところどころわかりかけてきたといった程度でしかない。人間の意識はどう構成されているかといった、脳の高次機能のメカニズムについては、解明の手がかりすらないのである。
人間存在の中核にあるのは、自己という意識の主体である。それは同時に行動の主体であり、思惟の主体であり、情動の主体でもある。自己というものはそのようなものの統合体としてある。その自己意識の座が脳のどこにあるのか。その意識はどのように作り出されるのか。そういったことはまるでわかっていないのである。
いまの脳研究で少しずつわかってきているのは、人はどうやってものを見ているのかとか、どうやって手足を動かすのかといった、情報処理や運動のサブシステムのメカニズムでしかない。
脳には、視覚系が集めた情報を受け取る認識主体がどこかにあるはずである。手足を動かして何をどうするという意志的決断をくだす意志の座があるはずである。ところがそういう肝腎かなめのところが全然わからないのである。
あまりのわからなさに、つい最近では、意識などというものは、本質的な実体としてあるものではなく、脳のメカニカルな活動にともなって付随的に発生してくる幻のようなものにすぎないという見解すら出てきている。つまり、個人的な存在の根源にある主体的意識などというものは、実体がない幻影にすぎないのだから、その座を探し求めるのは、無意味であるというわけだ。
脳の研究から出発して、自己意識の問題、存在主体の問題に迫ろうとすると、それくらいわけのわからないことになってしまうのである。かつては、脳の研究を進めていくことによって、人間存在の謎、人間の意識世界の謎はすべて解かれるだろうと考えられていたのだが、これはある意味で、それは不可能、という敗北宣言といってもよい。
前に脳機能の世界的研究者であるペンフィールドの業績をいろいろ紹介したが、彼も若いころは、脳研究が、人間の精神世界の神秘をすべて解き明かすだろうという一元論的信念に燃えていた。そして、自分の家の庭石に、ペンキで「ヌース₌脳」という図式を脳のイラスト入りで書いた。ヌースというのは英語に直せばマインド、日本語にすれば心、または精神という言葉にあたる。要するに、人間の精神機能、精神活動の中心ということである。それは脳にほかならないと最初ペンフィールドは考えていたのだが、いくら研究に研究を重ねても、脳の内部に自己意識の中枢が見えてこない。そこで晩年、ペンフィールドは一元論を捨てて、二元論の立場に立ち、脳は意識の中枢ではないと考えるにいたった。そして、庭石に描いた図式のヌースと脳を結ぶ等号の上に大きく「?」という疑問符を書き入れたのである。
ペンフィールドは、臨死体験という現象は知らなかったから、生前、臨死体験については何も言及していないが、もし彼が臨死体験の解釈をめぐって二つの立場からの論争があるということを知ったら、どうしただろうか。若いときなら文句なしに脳内現象説の立場に立っただろうが、晩年の彼なら、確実に現実体験説の側に立っただろうと思われる。
先に両説を比較して、どちらの説がより合理的かを論じたところで、脳内現象説の肩を持つ形で終わっていたが、実はここに述べたように、脳内現象説には、現実の脳研究から、脳と自己意識の問題がさっぱり解明されないという大きなウィーク・ポイントがあるのである。だから、脳内現象説といいながら、実際にやっていることは、現実体験説を反駁することがもっぱらで、自ら臨死体験を起こす脳のメカニズムをきちんと解明して提示しているわけではないのである。前章で述べたようなモデル提示の試みが若干行われている程度である。
そういうわけで、私も基本的には脳内現象説が正しいだろうとは思っているものの、もしかしたら現実体験説が正しいのかもしれないと、そちらの説にも心を閉ざさずにいる。
よりよく生きることへの意欲
ただ、実をいうと、私自身としては、どちらの説が正しくても、大した問題ではないと思っている。
臨死体験の取材にとりかかったはじめのころは、私はどちらが正しいのか早く知りたいと真剣に思っていた。それというのも、私自身死というものにかなり大きな恐怖心を抱いていたからである。
しかし、体験者の取材をどんどんつづけ、体験者が異口同音に、死ぬのが恐くなくなったというのを聞くうちに、いつの間にか私も死ぬのが恐くなくなってしまったのである。
これだけ多くの体験者の証言が一致しているのだから、多分、私が死ぬときも、それとよく似たプロセスをたどるのだろう。だとすると、死にゆくプロセスというのは、これまで考えてたより、はるかに楽な気持ちで通過できるプロセスらしいということがわかってきたからである。
そして、そのプロセスを通過した先がどうなっているのか。現実体験説のいうようにその先に素晴らしい死後の世界があるというなら、もちろんそれはそれで結構な話である。しかし、脳内現象説のいうように、その先がいっさい無になり、自己が完全に消滅してしまうというのも、それはそれでさっぱりしていいなと思っている。もっと若いときなら、自己の存在消滅という考えをそう簡単には受け入れられなかったかもしれないが、いまは、ある程度年をとったせいもあるのか、それほど大きな心理的障害なしに、そういう考えも受け入れられるのである。いずれにしても受け入れなければならないものを受け入れまいとしてジタバタするのは、幼児性のあらわれであり、あまり見っともいいことではないから、しないですませたいと思うのである。
それに、いずれの説が正しいにしろ、いまからどんなに調査研究を重ねても、この問題に関して、こちらが絶対的に正しいというような答えが出るはずがない。少なくとも私が死ぬ前に答えが出るはずがない。だから、いずれにしても、私は決定的な答えを持たないまま、そう遠くない将来に、自分の死と出会わなければならないわけである。そのとき、いずれにしろ、どちらが正しいのかは身をもって知ることができるわけである。そのことに関して、今からいくら思い悩んだとしても、別の選択ができるわけではない。それなら、どちらが正しいかは、そのときのお楽しみとしてとっておき、それまでは、むしろ、いかにしてよりよく生きるかにエネルギーを使ったほうが利口だと思うようになったのである。
「死ぬのが恐くなくなった」ということ以外に、もう一つ、臨死体験者が異口同音にいうことがる。それは「臨死体験をしてから、生きるということをとてもとても大切にするようになった。よりよく生きようと思うようになった」ということである。死後の世界の素晴らしさを体験した人は、生きるより死ぬほうがいいと考えるようになるのではないかと思われるかもしれないが、実際には、逆なのである。みんなよりよく生きることへの大きな意欲がわいてくるのである。それは、なぜか。体験者にいわせると、「いずれ死ぬときは死ぬ。生きることはいきてる間にしかできない。生きてる間は、生きてる間にしかできないことを、思いきりしておきたい」と考えるようになるからであるという。それはそうだと思う。聖書にも、「死者は死者をして葬らしめよ」とある。生きている間に、死について、いくら思い悩んでもどうにもならないのに、いつまでもあれこれ思い悩みつづけるのは愚かなことである。生きている間は生きることについて思い悩むべきである。 完
この文章は立花隆の「臨死体験」の締めくくりの文章で、本文はとても緻密なそして膨大な取材によりなりたっている本である。
最後に聖書が出て来るのが面白いでしょう? 唯物論者の立花が聖書を持ち出してくるのが面白いと思います。
立花さんの臨死体験の研究はなかなか面白いですね。脳科学者は、人間の確たる意志はないのではないかと考えている人も多いようです。人間の行動のほとんどは、ルーチン化された反応に基づいているということも池谷さんが書いていました。
意識は刺激に対する反応という側面が大きいと思っています。
立花さんが臨死体験を調べた時期はいつでしょうか。ぼくが読んでいる池谷さんの本では、人間の脳は、潜在意識下で情報をかなり処理していると書いています。ぼくは、この点が大事だと思っています。
潜在意識下で脳が勝手に整理してくれるという脳の特徴を利用すれば、ものすごく便利だと思っています。ぼくは今まで、脳が情報を勝手に整理してくれるということを大胆に信じてやってきました。この考え方は、議会の質問準備に役立っています。どんどん情報を詰め込んでいけば、脳が整理してくれるので、質問をどう組み立てるかというような悩み方はしません。できるだけ間際まで資料を読んで、原稿は一気に書くということをしています。ただ情報の連関と連鎖については、考えていると思います。その意識を持って情報を読んでいると、質問の組み立ては、勝手に脳がしてくれると思って、いつも質問を準備しています。
意識化されたものよりも、潜在意識の方がはるかに大きいと思うと楽です。自分はどうしてそう考えたのかというような悩み方はしません。行動をともなったり判断したことが正しいのかどうかを考えることはあります。漠然としていた部分が、あとになって鮮明に分かるということはあります。
奥付を見ると第一刷が一九九四年 九月二十日となっております。
ありがとうございます。
「うたたか」は「うたかた」に訂正します。
waoさんへ。
実は、誰も気がついていないかも知れませんが、投稿できる状態で、投稿の右端の方にマウスカーソルを動かすと歯車マークが表示され、そこを右クリックすると「編集」という字が出てくると思います。編集をクリックすると投稿したコメントの編集ができるはずです。お試し下さい。ちょっと自信がないのは、これができるのは著者だけかも知れないと思うからです。
了解しました。ありがとうございます。